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「悪戯にもほどがある」のぎりぎりのライン

悪戯が大好きで大好きでたまらない子供に対して使われるこの言葉。
もうタイトルの時点で中身のない記事になることは確定してしまったけどそれでもいい人は読んでくれると嬉しいな。それじゃ、行ってみよう!

主張:第三者の受け取り方で決まる


仮説について述べる前に、考えられる一般的な基準として他人に迷惑(マイナス面)をかけるか否かってのが考えられる。

これは自由を論じるときにもよく言われる基準の一つだよね。
「個人の自由とは他人に対して迷惑をかけない程度の自由である」とかなり砕けた言い方が許されるのであればこんな感じになるかな。

だから人のものを勝手にとったり、悪戯をしたことで誰かがけがをしたり最悪死んだりしてしまったらそれは悪戯にもほどがあると言える。

けど、それでなんで𠮟られてしまうのだろう。
例えば、幼いAさんがBさんに悪戯をして膝に擦り傷を負わせてしまったとする。Aさんはそのことで先生に怒られてしまった。ここでAさんが生意気な人間だと仮定して、先生との会話を再現してみよう。
《先生がAさんに対して『悪戯にもほどがあるぞ』と叱責している》
A「先生は何で怒っているの?」
先「なんで怒っているかって?当たり前だろ。A。君はBを傷つけた。君が原因でBにけがをさせてしまったんだ」
A「なんでけがをさせることがいけないの?」
先「そんなの決まってるだろ。Bが痛い思いをしたからだよ。Aだって痛いのは嫌だろう?それをBが味わったからだよ。A、君のつまらない悪戯でね」
A「戦争はいいの?」
先「え?」
A「戦争って相手の人を殺してるよね?あれって悪戯じゃないからオッケーってこと?」
先「(なんだこの子……)オッケーじゃないよ。戦争は許されないものだ。」
A「本当に?じゃあなんであんなにも多くの人が戦争に参加したの?みんなそう思ってるなら戦争なんて起きるわけないよね?それになんであの人たちは怒られないの?悪戯のような軽い気持ちじゃなくて真剣に相手を傷つけたなら怒られないわけ?」

上の会話はたいへん興味深いものだ。話は明らかな飛躍を見せているがそれでも悪戯、正義、戦争、欲望などのそれぞれの関わりを考えるうえで非常に重要な論点が上の会話では垣間見える。

この調子でより話を脱線させてしまおう。
①Aが「少し懲らしめてやろう」と思ってBを死なせてしまった場合。
②Aが「殺してやる」と思ってBを死なせてしまった場合。

ここでどちらの場合がより悪なのかと問われると多くの人は①を選択するだろう。
しかし本当にそうなのだろうか?
因みに「命を粗末に扱っているから」という理由は①の方がより悪いという答えに対しての理由には成り得ないよね。なぜなら②の方が最終的には(殺してやると意図して実行したとき)命の重みを考慮していないことが解るからだ。一方、①にはAがBを死なせるほどの意図は無かったことが解る。よってAが命を尊重していた可能性は残る。

こうなってくるとどちらが軽い気持ちで殺してしまったのかがわからなくなってくる。命の重みという視点で見れば尚更だ。

話を戻すと悪戯はどこまで許容されるかって話だけど、クスッと笑ってしまうような悪戯、つまり第三者がその悪戯をどのように受け取るかで決まるんじゃないかって思うんだ。当事者(悪戯を受けた人)としなかったのは負の感情にとらわれやすく「悪戯にもほどがある」と第三者よりは思いやすいと考えたからだ。

結論:「悪戯にもほどがある」のぎりぎりのラインは第三者によって決定される


なんだか裁判を連想させるものとなってしまったけれど今日はこのくらいにしておこう。十分な論証ができていないと感じるのは気のせいだよ。多分ね。


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