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眼とカメラ

世にも珍しいものがある。
非日常的な体験をしている。
すぐさまスマートフォンを取り出す。
写真なりビデオなり撮り始める。
現代には必ずこの行為をするものがいる。

なぜ人間はこのような行為をするのだろうか?

人間には眼があるはずだ。しかし見ることをやめて撮影することに集中する。上の問いに答えるうえで先に解決しなければならない問いを考える。

なぜ眼でなくカメラを使うのか。

①:あとで見返すため。

非日常的なものを体験したことを記録に残し、あとで思い出せるようにするためにカメラを使うのだ。
しかし、ちょっと待ってほしい。カメラで記録したことを見返す際に使う五感は視覚、聴覚のみである。
非日常的体験では五感すべてを使用する。(味覚は唾液の分泌またはその場所との接触)
つまり同等ではない。
これは問いの答えに対する反論ではない。しかしながら、私は人間が自らの能力を最大限発揮せずにものに規定されていることを少し懸念しているのだ。

②:撮った後に他者と共有するため

ここでの他者とは未来の自分も含むことを忘れてはならない。なるほど、昨今の時流を見るに確かに他者と物事を共有、共感することは自身の尊厳を守り育むうえでははなはだ重要なことである。
しかしながら、この問いも先と同じことが言える。反論ではない。しがない意見である。

③:撮ること自体に意味がある

つまるところ①、②もこの側面によるものが多分に存在する気がしてならない。そもそも非日常的な体験をしているのにも関わらずすぐさま「撮ろう」という意思が浮かんでくるのはそれは撮ることが目的になっている証拠である。
どんな意味があるのかと言われるとそれは①、②となるのであろう。


結論

カメラで何かを撮影すること自体に意味があるから。

特段私は撮影することを消極的に捉えるわけでは決してない。
近頃、自分が生まれて間もないころのビデオを見て涙は流さないものの流しそうになった次第である。
私が懸念している点は非日常的な体験をした際にすぐさま撮影しようとする人々がいるという点である。
我々は他に入り込むということをもう少し大切にする必要がある。
他に入り込むことで自我の変容を捉えることができる。
それは言語を用いる人間にしか認識できないであろう、特異な境地であることは言うまでもない。


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