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資本主義と感謝

資本主義と感謝。この2つを長期に渡って両立することは可能だろうか?今回はこの問題について思索する。

どっちつかずの資本主義

経済面においてはすべての国が資本主義に取り込まれているといっても過言ではないこの現代。一概に良いとは言えないし一概に悪いとも言えない資本主義。
全て述べることは不可能なので偏見にまみれた良い点悪い点を述べると、良い点は資本主義では金さえあれば商売ができる。それで莫大な利益を生み出すことだってできるのだ。
悪い点はルサンチマンを生み出しやすいという点。ルサンチマンは資本主義のためにある言葉なんじゃないかって思えてきたくらい。そもそも金持ちと金持ちじゃない人がいるのは格差を示す何よりの証拠だ。

けれどもお金持ちの人ってそこら中にはいない。逆に金持ちでない人ならそこら中にいる。どの金額で人を金持ちかそうでないかを判断するかの基準は人それぞれであるが、とにかく世の中に格差が存在していることは事実だ。

感謝がなくても成立する社会

ここでミニ思考実験。あなたはお店で買い物をした。有人レジに向かい、商品の購入を済ませる。その際店員の目を見て「ありがとうございます」などの感謝の言葉を述べたことはあるだろうか?またそのような人を見た事があるだろうか?
この思考実験の問いかけで私は決して「感謝の気持ちを述べましょう」などと言うつもりはない。もっと背後にある何かに関心がある。
私がこの思考実験において興味を持つのはずばり手段と目的についてだ。
かの哲学者カントは「目的の国」を提唱した。ざっくり言うとお互いを手段としてではなく目的として扱いましょうよということ。正しく対象を尊敬することが重要だ、と言いたかったわけだ。

私は毎回面白半分に商品を購入する際、店員の目を見ることがある。
すると、なんと店員の方でさえも目を合わせないことがあるではないか。
無論目を合わせないことが人を手段として扱っていることを意味するとは限らないが、アイコンタクト・目をそらすなんていう言葉があるくらいだから。他者の存在を知覚するのには有効なのであろう。
現代の世の中はまさにカントで言うところの「手段の国」になりつつある。感謝を示す行為が個人の無駄の価値観に内包されている場合もあり得るというわけだ。

目指すべき社会

しかし、手段の国では共通理解を図ることはまず不可能である。対話はもとよりまともな会話すら行われないのだから。ここでドリーマーは考える。金という物と概念をそっくりそのまま感謝に変えられたら面白いんじゃないかって。いや、無理難題なことは重々承知している。五十年後くらいにはできると面白いな。その時には人類は滅亡しているかもしれないが。

結論

Q.資本主義と感謝の両立は可能か?(長い目で見て)

A.現段階では難しい。「手段の国」になりつつあるから。
 
金を感謝に変える。ここまで人類が到達できるのなら、ついに概念が我々を支配することになる。
今回もいつも通りとりとめのない議論ができて本当に良かった。




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