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過去の女性の語り、今のフェミニズム―『未来からきたフェミニスト 北村兼子と山川菊栄』を読んで

『未来からきたフェミニスト 北村兼子と山川菊栄』(2023,花束書房)、この本が私の手元にやってきたとき、その装丁の美しさに、凝らされた工夫に驚いてしまった。

学術書に多いA5サイズの本書は、カバーと本体が一体化している。これだけ聞くとよくある教科書と同じ点だが、表紙・裏表紙が内側に折り込まれ、そでの部分が存在している。見返しが2枚付いた状態で、その一枚目にカバーのように、一体化した表紙が折り込まれているのである。
そして表紙側のそでには北村兼子の写真が、裏表紙側のそでには山川菊栄の写真が一面に印刷されてある。ノイズのある白黒写真は、二人の生きた年代をそれとなく示し、映る眼差しからは強い意志が伺える。

薄いクリーム色の表紙には、二人のイラストがこれまた美しいメタリックな紫色で型押しされている。表紙をめくると裏面から、その押された型がよく見える。二人がポコリと凹みを持って存在感を示している。
そして二人ともチェックのお洋服・着物を着ているのが、偶然だろうけれど運命的で、その関連に思いを馳せずにはいられない。

私はいつもバッグに本を突っ込んで持ち歩いているものだから、運が悪いと稀に本がぐにゃりと折れたりしてしまう。
この本はあまりに素敵な装丁なので傷つけたくなくて、適当な紙で封筒を作って入れておくことにした。

本と封筒。読み終わった日に破れてしまった。


北村兼子は1903年生まれ。山川菊栄は1890年生まれ。明治生まれの2人の著作は今なお色褪せず輝きを放っている。
「未来からきたフェミニスト」という題名はあまりに正しい。不勉強ゆえ2人のことを全然知らなかったのが恥ずかしい。

現在のフェミニズムは「フェミ」という名称だけが独り歩きし、その学術的意味合いも理論も置いてけぼりに、大衆からの賛同と嘲笑を一身に受けている。

私は田舎で伝統的価値観ゆえの「女尊男卑」社会を生きて、その嘘っぱちのぬるま湯に浸かり、大きな視点を失って目の前の楽を甘受していた。
とはいえ、「女の子だから」を理由に得られるものの背景にはキモチワルイものが確かに存在していて、それは男とか女とか以前に全員が平等で自由な人間であることの忘却ということに気付いたのは多分、2015年頃、中学を卒業する頃になってからだったと思う。

そこからフェミニズムに関心を持ち始めた。2015年はインターネットでフェミニズムが流行り始めたころで、田舎の人間でも簡単に知ることができた。でも世の中の議論の多くはあまりしっくり来なかった。
私が真に求めるのは女性優遇ではなくて、人間としての平等だった。女性であることゆえの不平等の解消と同時に男性であることゆえの不平等の解消だった。私たちが男性女性とかを抜きにしても、全員が異なる身体を持っていることの証明だった。

そこはかとないキモチワルさと共に生きていくのは絶対に嫌だった。今も尚うまく言語化できぬまま、現代の社会構造がもたらす男女の関係、結婚、それに伴う家族観に反逆している。


本書の7割くらいのページは北村兼子の文章がそのまま掲載されている。
兼子の紡ぐ文章は辛辣で、人間への愛と学問への愛に満ち溢れ、それでいてキャッチーで、痛いほどにまっすぐだ。

汝らは家庭に居れと言う、その家庭とは何ぞや、祖先祭祀の場所を云うのか、舅姑に対抗して駆け引きする場所を云うのか、夫婦喧嘩の壇上か家賃を取られる所を指すのか、区役所の記録に載っているところを云うのか、または不愉快な此等をひっくるめた処を云うのか、そこに居れと言うなら私は明らかに厭と答える。

「男子征服の大旗を樹てよ」p.125

六法全書なんか見るとカチカチになりましょうと人が言う。堕落する人は境遇によらず堕落するように、法律を読んで変にコヂれるような人はやらなくても脇へそれる世の中に味のないものはない。法は日常生活の様式を文字に映写したもので、これを活動せしめると甚だ面白い。

「法律を学ぶ私」p.28

兼子は一貫して女性の参政権を求める。日本で女性が参政権を得たのは1946年、兼子が亡くなってから15年も後のことだった。
女性が大学に入学できない時代に、1人大学で聴講生として法律を学んだ。在学中から大阪朝日新聞記者として働き、国内外で活躍する。
当時の女性は女学校に行き家政を学び嫁に行き子どもを産み夫を支える、それが一般的だった。そんな時代に兼子のような、言論と活動の鋭利さを持ち社会を駆け回る女性がどのように映っただろうか。
男性からの、世の中からの批判と性的な加害の言葉・行為は想像するにあまりある。
実際世論には苦しめられたようで、酷く傷付きながらも決死に言論で戦う兼子の言葉がいくつかこの本にも記載されている。

私の本来の意思は著書の『怪貞操』に述べた通り、卑劣な男子の挑戦に対する一歩も譲らない応戦であります。声量が不十分なため女の愚痴のように聞こえるでしょうが、力一ぱいに投げた敵弾であります。

「怪貞操をレコードに吹込んだ後の感想」p.72

私が兼子の友達だったら、と思う。そんなに厳しい言葉を吐いたらまた世界に傷付けられてしまう。こんなにも聡明な人間が、女性というだけで無意味な批判を受ける。戦い続ける言葉にその叫びが現れている。

兼子は「貞操」に問題があると騒ぎ立てられ、デマが溢れ、ついぞ退職にまで追い込まれてしまう。

私が男性と遊んだという事、その一事だけで私の全生涯を葬り得られるほど女が弱いものとせば、女たるもの家の敷居から一歩でも踏み出すが生命とられである。

「怪貞操」p.89

兼子の言葉を読んでいると、その苦しさと痛みが我が事のように刺さり、彼女の肩を抱いて泣きたくなる。婦人会などと行動を共にせず、まさに一匹狼で活動し続けた彼女の強さと弱さが見えてくる。

山川菊栄もまた、婦人会といった集団とは行動を異にしており、兼子との共通点の一つと言える。

本書のなかで林葉子は菊栄を「日本で最も優れた廃娼論者」であると評し、その理論を詳解している(p.266-273)。
『青鞜』において菊栄は伊藤野枝と「廃娼論争」を展開する。伊藤は公娼制度が男性の性欲の強さを理由として存在して長く、廃止は不可能であるとその論を展開する。
これに対し菊栄は、男性の性欲が生来的なものではなく「不自然な社会制度に応じて出来たもの」であるとし、廃娼の実現を主張する。

私は本書で菊栄に関する箇所を読むたび、彼女の視点の高さ、視野の広さに驚かされる。この廃娼論争にも表れているように、彼女のまなざしは社会全体を見据え、「人間」を信じている。

彼女の、生理休暇に対する批判もまさにこの「まなざしの広さ」を所以とするものだろう。
生理休暇を求める声が多い中で菊栄は、「すべての女性が必ずしも必要としているわけではない生理休暇を女性であるという理由だけで取得することが、労働条件における男女平等を損なう危険を訴えていた」(豊田真穂「山川菊栄の生理休暇論」p.218)。生理休暇よりむしろ、「男女共通に取得できる病気休暇を求めるよう促した」(同上)。

菊栄は「女性優遇」ではなく、「男女平等」を求める。
ボーヴォワールが『第二の性』で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言うのと、菊栄が男性性/女性性の背後にある社会構造を見つめることには非常に近い感性が感じられる。
菊栄とボーヴォワールの生きた時代は大きく重なっている。会ったことはなくても著作を読んだりはしていたのかもしれない。(私の調べが不十分なだけで、菊栄の話はずいぶん資料として残っているらしいから、ちゃんと調べたら言及している箇所は見つけられるような気がする。)


27歳という若さで生涯を閉じた北村兼子、90歳までその思想と運動を伝え続けることに尽力した山川菊栄。
2024年の今、生きていたら何を思うだろう。
私は、2人に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ごめんなさい、と謝り倒してしまいたい。
100年経っても未だに私たちは性によって不平等がある。

もちろん、多少はマシになったと思う。でも今なお課題であり続けている。
本書のなかで何度も言及される公娼制度、廃娼運動。今も売春に関する問題は絶えず、そして2人が危惧したように、私娼―立ちんぼの女の子―が街にいる。それを買う男性がいる。

私たちはどうすれば、皆一人ひとりが差異のあるかけがえのない平等な個人であることを認識できるのだろう。
男性と女性は確かに、生まれたその瞬間から身体の仕組みが違う。それは絶対的な差異だ。でも同様に、男性だからといって、女性だからといってその身体は一意に定められるわけではなく、個々人で異なりを持っている。
全人類はそれぞれの唯一性を持っている。男とか女とか、それ以前に、全員がそもそも異なっている。そしてそのうえで、全員は平等である。

男性は理性的で女性は感情的、男の子は電車が好きで女の子は人形遊びが好き。これはある種の事実だが全てにおいての真実ではない。「傾向」でしかない。これを真実として受け止めることは、少数者の切り捨てである。
全ての人は一つの場でマジョリティであるように、ある一つの場ではマイノリティになり得る。少数者を慮ることは違う場の自分を慮ることと同義だ。


兼子と菊栄は、生きた時代が重なるものの交流は確認されていないようだ。そんな2人がなぜまとまって『未来からきたフェミニスト』と題されているのか。それは2人が持つ先進性に他ならない。2人の言葉は今なお新しく、私たちに戒めと共感を与える。(全ての言葉が完璧に正しいわけではないことは留意している。今では差別用語として扱われる発言もある。ただし2人とも常に考え続け、それを改める人だった。)

今「フェミニズム」は良くも悪くも異様な拡がりを見せている。それは世の中の多くの人が男性も女性も皆平等な人間であることを認識しつつも、身体の仕組みの違いから発生する差異とその必要な配慮によって、真なる「平等」を見失いそうになる不安感からではないかと思う。
誰しも戦争をしたくないのと同様に差別なんてしたくない。理性ある人間として平等でありたい。

私は女の身体に生まれたことを愉快に思う気持ちがある一方、申し訳ない気持ちを持っている。女の身体を持つことに違和感はない。自分のものだと感じられる。でも社会が求める「女性」性を私は持っていない。多分私は結婚しないし子どもを持たない。サイバネティクスなことを言ってしまえば、私の体外で育つ受精卵があればそれがいい。でも科学技術か倫理が許さない。


兼子が「私は性別を超越してヒューマンとなりたい」と言う。「男とか女とかいふ灰汁を人間から抜いた頭を持ちたい」(p214)。
首が取れそうなほどに頷く。私はヒューマンになりたい。
男でも女でもない人間になりたい。そういう人間として扱ってもらいたい。
そのためにまず私が、全ての人を「人間」として見つめたい。


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