「他人が撮った写真見て、何が楽しいの?」
はじめに
ここ数年、SNSが急速に普及して、思うことがたくさんある。
シェアするってなんだろう、自己呈示ってなんだろう、自己表現ってなんだろう、マウント取るってなんだろう。
どれも同じようで全て異なっていて、それがごちゃごちゃになっていることでカオスと化しているSNSというフィールド。
自分の世界が広がってゆく、いいところもたくさんあるけれど、私たちは知らなくてもいいことを知りすぎているのかもしれない。
現実の世界で普通に生きていたら、出会ったり知ったりすることのなかった他人の情報で(しかもパーソナルな)脳のキャパシティを消費してしまうことって、めちゃくちゃ不幸ではないか。
マルチシフト地獄の拡大
最近講義を受けてはっとしたが、現代のストレスは、「マルチシフト」によるものらしい。つまり、いろいろなことに気を取られ、注意が散漫になっている。そしてその注意の切り替えは、脳みそに多大なストレスを与えるらしい。
めちゃくちゃ分かる。
私は昔からマルチタスクが苦手で、授業中に「内職」というものができない人間だった。「イイ子ちゃん」だからではなく、どちらにも集中できていないことが気持ち悪くて「不可能」だったのだ。
でもそれは、どうやら当たり前の感覚だったみたいで安心した。こんなことを解明してくれた科学者の方々ありがとう。
SNSで現代のマルチシフト地獄は加速化している。昨日も、「人々が長いイントロを聞けなくなっているのでイントロの短い曲が増えている」という話を小耳に挟んだのだが、やっぱりみんな集中力が下がっているのだろうな。圧倒的に「待てなく」なっている。
もう、人間の処理できるキャパを超えている。いろいろなものの量が。
こんなことを常日頃考えていたら、昨日お風呂でふと、とある会話を思い出した。
「他人が撮った写真を見て、何が楽しいの?」
私がスマホを持ち始めた頃、LINEでさえ、「なんか怖かった」頃。友人にInstagramを勧められた。おそらく、高1?くらいだったはずだ。
その時私は、「インスタって何?何をするもの?」と彼女に尋ね、こう続けたのだ。
「他人が撮った写真を見て、何が楽しいの?」
そこには何の嫌味もなかった。心の底から湧き出た疑問だった。でもこれは真理だ。
それが今では、もう二度と会うことのないであろう人との繋がりを断ち切れないでいる。あと戻りできない。
当時、他人の情報で何となく時間を無駄にすることがなかった当時、何をしていたかと言えば、多分それなりに時間を無駄にしていた。
録画したアメトーークを何度も見たり、同じ本を繰り返し読んだり、ひたすら寝たり。
でも今思えば、その無駄の方がよっぽど尊い。その証拠に、当時の「無駄」の内容を、今でも思い出すことができるのだから。でも今、なんとなく見た誰かが発信している情報を思い出すことはできない。
親しい人たちの中には、Instagramをやめている人も多い。でも私は踏み切れない。飲食店もInstagramをホームページ代わりにしているところも多く、情報獲得手段として当たり前になってしまった。
「みんなが使っている」と、こんなにも自分の選択がしづらくなるのか。
でも、5年前?6,7年前?もう分からないが、当時の私が言った、
「他人が撮った写真を見て、何が楽しいの?」
この感覚を忘れてはいけない、自分に集中することを忘れてはいけないと思った。