小ホラ　第39話

真夜中のボクサー

　もっと早く帰ればよかったと後悔した。
　久しぶりの飲み会が楽しくて夜遅くなり過ぎたのだ。
　彼氏に車で迎えに来てもらった友人が「送ってあげる」とせっかく言ってくれたのに、ほんの少し嫉妬して、大丈夫だからと見栄を張ったあの時の自分が情けない。
　終電に間に合い一応最寄り駅まで帰れたものの、自宅までの道のりには女子にとって大きな難所があった。
　はあ。
　深いため息が出た。
　ここからは人目がなくなり、痴漢多発地帯と呼ばれている危険な路地だ。
　通勤通学する女子やその家族の要望により街灯の増設、警官や自治体有志によるパトロールの強化をもってしても痴漢の被害はなくならない。
　後をつけ回す者や露出狂、抱きつかれたり、路地裏に引きずり込まれレイプされた人もいると聞く。
　ママに言わせれば、痴漢多発地帯だとわかっていて夜中に通る女も悪いらしい。
　いやいやいや、それ偏見。わかってても通らないといけない時だってあるんだよママ、今のわたしみたいに。
　あーあ、無事通れるかなぁ、痴漢されたらそれ見たことかって嫌味言われそう――って、それどころじゃないことまでされたらどうしよう――ううん。きっと大丈夫。わたし可愛くないし。痴漢だって人選ぶでしょ。
「よしっ」
 
　多発地帯に踏み込み、しばらく進んで行くと、後ろから足音が聞こえた。
　心臓がどくんと跳ねる。
　試しに早足で進むと、ついて来る足音も早くなった。
　ウソっウソっ――もうやだよぉ、日頃全然モテないのに何でこんな時、狙われるわけ？　
　ううん、まだわからない。ただの通行人かも。そうよ、勘違いよ。わたしってば自意識過剰になってんじゃないわよ。でも――やっぱり逃げたほうがいいよね。
　そう判断して全速力で走った。
　だが、日頃の運動不足と酔いが祟って息切れがひどい。立ち止まって息を整えながら、後ろの気配を窺った。
　足音は消えていた。
　相手を撒くほど走っていないから、やっぱり勘違いだったんだ。
　ほっと胸を撫で下ろした瞬間、男が横路地から飛び出してきた。路地裏を通って先回りしてきたのだ。
　フードを被った髭面がにやにやしながら、あからさまに露出した股間を両手でいじくっている。
　驚きと恐怖で動けないでいると、汚らしいその手を伸ばしてきた。
　いやぁぁ――
　その時、男が横に吹っ飛んだ。
「えっ？」
　悲鳴を上げるのも忘れ呆然とするわたしの目の前にカンガルーが立っていた。胸板の厚い腕の筋肉が盛り上がった立派なカンガルーが。
　びょんびょんと飛び跳ねてファイティングポーズをとり、起き上がってきた男が体制を整える間もなくジャンプキックを食らわせた。
　太い尻尾が放つ跳躍と筋肉質の大きな足の威力は絶大だった。
　再び吹っ飛び完全に気絶した男を見届けるとカンガルーはこっちを振り向いた。
　どこをどう見ても本物で、鋼のような強靭な体とは裏腹に長い睫毛のとろんとした大きな黒目がとても可愛らしい。
　カンガルーは口をもごもご動かし、耳をニ三回掻いた後、軽やかに跳ね暗闇に消えていった。
「かっこいい――」
　しばらくぼうっとなっていたが我に返り、急いで携帯電話で１１０番通報する。
　痴漢を撃退してくれたのがカンガルーだとお巡りさんは信じてくれるだろうか。
　パトカーが来るのを待ちながら、わたしはあのカンガルーにまた会いたいと願っていた。