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適応障害が出ている日々、毒親への怒り

ここ2週間くらい深夜に目が覚めてしまう。
トイレに起きる日もあるし、普段なら目が覚めないような微かな物音で起きた日もあった。耳栓をして、アイマスクをつけて対策もしたけれど、それでも目が覚める。怖い夢を見て起きる。だいたい誰かに見つからないように逃げていたり、何かから逃れようとしている。

今朝も何か夢を見て、怖くて起きた。そして起き抜けに両親にキレていた。

うちの両親は片付けができない。わたしは猫の額ほどの賃貸アパートで365日暮らせるだけのものしか持っていないが、あの人たちは2人で一軒家にわたし何人分になるかわからないだけのモノを置いて暮らしている。

モノがない時代に育ち、捨てられない世代なのだろうとは察する。だが、捨てようとすればキレる。片付けるよう頼めばうるさい、ほっといて、お前には関係ないという。
何年か前からずっと「少しずつ片付けているから黙っていろ」と言われているが、どう見ても片付けが進んでいるようには見えない。そのペースで死ぬまでに身辺整理が終わると思っているのか?自分の体力がますます低下することもまるで計算に入れていない。

母親は「私はおばあちゃんが死んだ時片付けに行けた」と暗に私にも同じことをやるように言ってきたが、一体どういう考えでそんなことが言えるのか甚だ疑問である。
母親は専業主婦で時間の融通は効く。限られた日数しかない有給をどう使うかとかいう概念はない。働かなくても父親の収入が当てにできる身分だ。
一方わたしは働いていて、自分が休んだぶんは生活に直結する。ましてやろくにコミュニケーションを取る気のない親のために割く時間などない。そういうことを母親はまるっきり考えていない。そこまで想像力に欠ける人だったとは思わなかった。遠い国の貧しい子供や見知らぬ生活困窮者に寄付したりはできるのに。(よく考えたらその金すら彼女が稼いだお金ではない)

過去、手を替え品を替え、再三私は伝えた。
それでも聞かないというのなら、お前らの身体が動かなくなり世話が必要になった時でも、わたしの手も時間も金も煩わせることなく全部自分でやってくれ。この言葉を私はぐっと飲み込んだまま数年を過ごしてきた。

この毒両親は私や赤の他人の人生にはあれこれ難癖をつけ批判をし見下す割には、自分が何か言われることは些細なことでもひどく嫌がる。父親が定年後再雇用を提案されたと聞いて、会社に求められているならもう少し働いたらいいんじゃないか、と言ったら、お前に言われたくないと、こんな前向きな話題でさえ否定する。

片付けろ、というのは私が幼い頃、父親が母親によく言っていた言葉だ。いわゆる企業戦士ってやつだった(と思う)父親は、今思えばありえないくらい忙しかった。平日は私より早く家を出て、帰りは私が寝てから(正確には自室で寝たふりをしてから)帰ってきて、午前様ということも少なくなかったと思う。土日も働いていたんじゃないだろうか。もう記憶が曖昧だが、いる方が珍しく、そして緊張感があった。

父親はろくに休めなくて気が立っていたのだろう。気に入らないといつでも突然切れ、あたりのものを投げ散らかし、豚小屋!と、怒鳴り罵っていた。それに対して母親は決して片付けることなく、豚は綺麗好きだ、などと論点のズレたことを言い返していた。おそらくそれがますます火に油を注ぎ、父親はリビングを出てダンダンダン!と物凄い足音を立てて階段を駆け上がりバン!と壊れるんじゃないかというくらい大きな音を立ててドアを閉め、自室に篭る。これが日常だった。

顔を合わせる数時間でこれなのだから、父親の存在は恐怖でしかなかった。怒らせないようにビクビクして過ごした。いない方が良かった。いなければのびのび過ごせたからだ。そして私は錯覚を起こしていた。母親はいい人だと。
でも、それも違った。母親は暴力こそ振るわないが、好きなこと(料理)以外何もしない人だった。これはごく最近気づいたことだ。
たとえば私が父親に殴られた時に身を挺して庇うことはなかった。遠くから何か言っていただけだ。ドラマで見た母親は割って入って父親から子供を守っていたのに。電話嫌いだったのか、学校が嫌いだったのか、私が体調不良で休みたいと言ったら自分で電話しろと言われたのは忘れられない。

母親は帰りの遅い父親の帰りを待つことなく冷たいご飯にラップをかけておいて寝る人だった。ここは夫婦の話し合いがあったのかもしれない。いや、話し合いではなく父親からの要請、命令だったのかもしれないが、とにかくいても父親の癒やしにはならなかったのだろう。

母親は父親を悪く言った。父親のいないところで。暴力は振るわないまでも暴言を吐き暴れる父親ばかり見ていた幼いわたしはすっかり父親は悪いものだと信じ込んだ。

暴れる父親に愛想をつかしたのが先か、家を散らかしてばかりの母親に嫌気がさしたのが先か、どちらが先かはわからない。だが、毒両親のどちらも家庭をお互いが過ごしやすい場所にしようという気持ちが微塵もなく、ただ自分が過ごしたいように過ごしていたことだけは明白だ。

そして兄弟のいない私は、これを1人で受け止めざるを得なかった。誰にも言えなかった。外面のいい両親の家での姿は、誰に言っても「そんなことないでしょ」と相手にされなかった、ということもあるし、両親は近所の人を悪く言ってばかりで、自分も「親が悪くいう人は悪い人」と思ってしまっていた。だから、日常的にこんなことを話せる相手はいなかった。悲しい気持ちや怖い気持ちを言える人も慰めてくれるペットもいなかった。我が家はこういう家なのだ。

片付けの話に戻る。
数年前、60代、まだまだ元気な頃にチラリと老後について聞こうとしたら毒両親は見るからに不機嫌になった。それで、もう諦めて、体力の衰えを感じ始めるであろう70歳になるまでは何もいうまいと決めた。だが、気づけば来年父親は70歳になる。

エンディングノートを書け、家の片付け費用は十分に用意しておけ。お願いされれば葬式と墓くらいは希望通りにしてやってもいい。そうでないならわたしを一切煩わせるな。聞く耳持たない親の面倒を見る気はない。テメェのケツはテメェで拭け。ついにこれをいう時が来たと思うと、あの毒両親がどういう反応をするのか楽しみでもある。

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