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Maison book girl『Solitude BOX Online』が見せた配信ライブの可能性

2020年6月24日、Maison book girl(メゾンブックガール/ブクガ)がベストアルバム『Fiction』の発売に合わせて自身初となる配信公演『Solitude BOX Online』を行った。

ライブハウスでのイベント開催に多くの制限が課される現在、多くのアーティストが無観客での配信公演を試みている。しかしそのほとんどはあくまで会場で観るライブの代替としての配信であり、「配信である必要性」を示した例は少ない。

先立って6月20日にBiSがニコニコ生放送にて行った『HEART-SHAPED BiS IT'S TOO LATE EDiTiON NO AUDiENCE LiVE』は、配信カメラの視点を活用したオープニング演出、怒涛の持ち曲全曲披露、メンバー4人の専用カメラ4台による4分割映像など数々の意欲的な施策が話題を呼んだ。
配信が生のライブの代替品に過ぎないという評価を覆すべく、こうした新しい挑戦が少しずつ始まっている。

(このレポートが素敵だったので紹介させてください)

そのような状況の中で、元来アイドルのライブの枠にとどまらない演出に定評があるMaison book girlが満を持して行った無観客公演『Solitude BOX Online』は、配信ライブの、そしてMaison book girlというグループ自身の新たな可能性を提示するものであった。

ライブレポート

開場BGMが止み、突如画面に現れたのは観客をSolitude BOXへと誘う招待文。画面の下から上へ横書きで書かれた言葉が、順に左へスクロールされていく。この文字の流れ方が示唆する物はただひとつ。この瞬間から観客は、この配信の視聴者としての自分を表象するフレーム─すなわち自ら手にしたスマートフォン─を意識させられることとなる(もしPCで観ていたとしても同じことである)。

"こんにちは、メゾンブックガール。"

暗転を経て流れ出したのは1月に行ったワンマンライブ『Solitude HOTEL ∞F』から、ポエトリーリーディングにアレンジされた「bath room」の映像。ぜんまいが切れたようにスローダウンしていくトラックと血塗れの衣装が鑑賞者を一気にMaison book girlの世界へと惹き込む。

そのまま「悲しみの子供たち」の映像が流れ出すと、ライブ映像の4人の姿に重なって、ペストマスクを被った踊り子たちがフラッシュバックするように現れる。
どちらが夢か現実か、2つの映像の間を目まぐるしく行き来するうちにやがて曖昧になり、曲が「狭い物語」へ移行したとき、主導権は完全に狭いステージの上に立つペストマスク姿の4人へと渡っていた。

ひとことも発さず音源に合わせ淡々と踊り続ける4人。間奏を挟んで全員が中央に集まると、1人のペストマスクが剥ぎ取られ、矢川葵の顔が現れる。

"夢じゃないの──"

サビの歌詞に突き動かされ、まさに夢から覚めるように全員が自分の姿と歌声を取り戻した。

流れ出した不穏な弦楽器のイントロは「レインコートと首の無い鳥」。曲中、着ていたレインコートを順に脱いで、現れたのはベストアルバムリリースにあたって用意された新しい衣装だ。間髪入れず2度目の「レインコートと首の無い鳥」。支配から脱し、これまでのグループの歴史を身にまとった4人が、複雑な拍子の上で一矢乱れぬダンスを披露する。

ライブハウスで観るライブと配信ライブの大きな違いは、コミュニケーションの双方向性だ。つまり、配信公演では基本的にアーティストから観客への一方的な発信しか成立しない。逆を言えば、アーティストの前に観客の姿は見えず、観客が一方的にアーティストを「監視」している状態。
冒頭の招待文を読んだとき既に、観客達はこの「監視」の枠組みの中に自然と取り込まれていた。そして2回目の「レインコートと首の無い鳥」が終わりかけたその瞬間、我々はその事実を鮮烈に突きつけられることとなる──井上唯が突然踊りをやめ、ゆっくりと手を挙げ"こちら"を指さしたのである。つられて他の3人も次々と"こちら"に目を向ける。

ステージの斜め後方、メンバーを見上げる角度で設置されたやや解像度の荒いカメラ。その存在を認識した矢川がゆっくりとソレに近づき、手で監視者の視線を覆い隠し、暗転。

三度「レインコートと首の無い鳥」が流れ出したとき、我々はステージの上、踊る4人のただ中に"立っていた"
今度はカメラのこちら側の存在をハッキリと認識した表情で、次々とソレを受け渡しながら歌い踊る4人のメンバー。遠景の別カメラに切り替わって手元に写ったソレの正体を、我々は本当は初めから知っていたはずだ。ライブが始まったときから自分の手の中にあり、スクロールして招待文を読み、ステージ上のパフォーマンスを見つめるために使っていた道具──スマートフォン

先程から観ていた映像は、実は自分が手にしたそのスマホ、そしてメンバーが手にしたそのスマホ(この両者は区別されないのである)に映った映像だった。そのことに気付かされたときにはもう、我々は一方的な監視者の身分を剥奪され、このSolitude BOXという物語の中に強引に連れ込まれていたのである。

ステージの中から演者と同じ視点でパフォーマンスを見るという不思議な体験がやがて終わると、この日最後の「レインコートと首の無い鳥」が流れ出した。今までのどれとも異なる照明演出と、メンバーの映像に重なって描かれる奇妙な模様で彩られた音楽は、既に同じ曲を3回も聴いたとは思えない鮮やかな印象を持って歌われていく。ディティールを変えながら何度も繰り返し見る同じ夢にうなされるような感覚。4度目は音楽さえも歪んで聴こえてくるような気がする……。

続いて聴こえてきたのは「karma」のイントロ、かと思いきや「croudy irony」の歌詞を再構成して「karma」に乗せたパラレルワールド的楽曲「river」である。Solitude HOTEL ∞Fで披露されたこの曲はこの度のベストアルバムで初めて音源化された。旧来の友人のドッペルゲンガーにでも遭遇したかのような、懐かしさともどかしさの混ざり合った浮遊感が続く。

再びの映像演出により舞台が水の中に沈むと、「water」のポエトリーリーディングが始まる。

そして、
僕の世界には、
僕だけが
いないことに
気付く。

曲中何度も繰り返されるこのフレーズは、このライブ前半の観客の視線の扱いを象徴するかのようである。観察者が見る世界には、どんなに頑張っても観察者自身は現れ得ない。誰かに無理やり引き込まれて初めて、自分の存在が世界に認識されていたことに気付く。

色んなものの嘘を
少しずつ集めて、
一個の本当にしたら…

『Fiction』という名を冠したアルバムに18個の「嘘」を集めたMaison book girlは、いつもこのようにして「本当」を作り上げてきた。
暗い水の底からゆっくりと浮上するようにして、ライブは終盤へと進んでいく。

長い夜が明けて』はブクガの歴史の中でひとつの転機となった曲で、歌詞の上でも、そして楽曲の位置づけとしても文字通り「夜明け」の曲だ。それはそのままこのライブのセットリストの中での役割となり、この曲を境に少しずつ朝の光が見え始める。

夜がない世界が始まってゆく


「夜がない世界」へとたどり着いたMaison book girlを待ち受けていたのはなんと「朝なのに暗い世界」という"オチ"だった──『闇色の朝』はそんな彼女達の新境地での苦難を描いた曲だ。リリース順、ベストアルバムの曲順、グループの歴史、歌詞のストーリーのいずれにも沿った、『長い夜が明けて』→『闇色の朝』という曲順をこのライブでも踏襲していく。

この曲の途中には、唐突に全ての音が止まる場面がある。この日のライブでは急停止とともに画面がブラックアウトし「蟲」や「時計」の映像が挿入される演出が為された。MVやワンマン公演でブクガを見ているファンにとっては見慣れた演出かもしれないが、配信という形態の中で行われたそれはライブ全体に不思議な効果を及ぼしていた。
実はこの日、ライブ中に(おそらく意図せず)音や映像がとびとびになってしまう場面が何度かあったのだが、その度にライブ配信画面に併設されたチャット欄でファンのこんな会話が交わされていたのである。

今のってトラブル?
演出?

電波を介する以上容易には避けられない映像や音声のトラブルでさえ、演出と見分けのつかないライブの一部として包含してしまえる。それは決して技術的な妥協ではなく、これまでMaison book girlが積み上げてきたステージ作りへのこだわりが背景にあるからこそ為せる業であり、Maison book girlにしかできない魅せ方だ。
実は過去にも、映像演出用のディスプレイが故障したことを逆手にとり、本番中に新しい演出を作って切り抜けたことがあった。

個人的には、トラブルはチャンスだと思っています。トラブルによりその場のお客さんしか得られないコンテクストが発生するので、それを利用してエポックな体験を生み出したい。その後Twitterでお客さんが「バグも演出だと思った」とツイートしていたのを見て、嬉しかったですね。
(huezステージエンジニア・YAVAO氏/リンク先記事より)


用意した音楽やパフォーマンスがそのまま余すことなく伝えられるに越したことはない、という大前提には立ちながら、それが叶わないトラブルが起きたときにも、それ自体を含めた「生の体験」として許容してしまえる度量。電波や機材の都合と観客の反応で偶然あぶりだされたこの現象が示すとおり、Solitude BOXとは一方向的な配信と鑑賞ではなく、双方向的な「ライブ」体験そのものであった。

そしてライブの最後に用意されたのはベストアルバムのタイトルと同じ名前を持った新曲『Fiction』。
『闇色の朝』の「闇が降る」とちょうど対になる「朝が降る」という詞が印象的な、Maison book girlの集大成的楽曲だ。
これまでの不安や苦悩を柔らかい光で包み込んでいくような優しいメロディーが、少しずつ朝の世界を照らしていく。

最後の約束をしてる 僕ら
朝が降り
手を繋ぐ

約1時間の「虚構」を全員の高らかなユニゾンで締めくくった4人は、自らの足で、地面に置かれたカメラのフレームの外へと踏み出して行った。

Solitude BOXとは何であったか

この無観客公演が従来の配信ライブと明確に異なった点は、鑑賞者たる我々自身の実在である。画面の向こうのショーを観ているとき、無意識のうちに自分の存在を排除してしまう感覚。配信ライブを生のライブのようには楽しめない要因の一つはここにあるのかもしれない。

ライブハウスという音楽のための箱、スマートフォンという通信のための箱、ステージで踊る演者、演者が見る夢の中の映像、演者を見る観客がいる部屋、箱、孤独な監視者、観客を見る演者、持ち運ばれる箱、箱の壁の崩壊……

大小のフレームあるいは箱の中で、幾重にも繰り返される見る・見られるの関係と、互いに向けられた視線をうまく使って、観客自身の存在をステージの光の上に晒してみせた。これが『Solitude BOX』の成したことである。

一方でこの事象は、あくまで鑑賞者自身の一個人的で孤独な体験に過ぎないとも言える。
僕の見る世界には僕だけがいない」けれど、同時に「僕が世界を見ているとき、そこには僕しかいない」のである。鑑賞という行為を通した、ありありとした存在の実感。

Maison book girlだからこそ作り上げられたこのショーは、配信という形態でしか見せられないMaison book girlの姿を描いたという点で、他とは一線を画すものだ。そして、彼女達にはそうしたまだ見せていない可能性が沢山残されている──そう感じさせるには充分すぎるほどの公演であった。

長い夜の果てに朝を迎えたMaison book girlが、次はどのような世界を歩んでいくのか。我々も時に彼女達の世界に巻き込まれながら、その目撃者となるのである。


Maison book girl
Solitude BOX Online
2020.6.24(Wed)

bath room (Solitude HOTEL ∞Fライブ映像)
1.悲しみの子供たち
2.狭い物語
3.レインコートと首の無い鳥
4.レインコートと首の無い鳥
5.レインコートと首の無い鳥
6.レインコートと首の無い鳥
7.river
8.water
9.長い夜が明けて
10.闇色の朝_
11.Fiction

アーカイブはtigetにて6/28まで販売中。

Solitude BOX Online - tiget

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