母と話が合わない|マガジン♯153
母と話が合わない。
これは、私にとって大きな出来事でした。29年間同じ母である。物心がついた時から、今日に至るまで一日でも嫌いになったことはないし、他のお母さんだったらと思ったこともない。黒木瞳や小倉優子も好きだが、うちのお母さんと代わってくれだなんて思ったことはない。
他のお母さんの方が綺麗な人もいれば面白い人もいることも知っている。他のお母さんなら留学もできたかもしれない。キャバクラやチャットでなんて働いてもなかったかもしれないし、今頃幸せな結婚をしてたとしても、私は今の母が一番だ。
そんな母と話が合わないのだ。
何をさっきから言っているんだと思う人もいるだろうが、私は物心ついた時、それこそ幼稚園の時は幼稚園バッグを放り投げて小学生の時はランドセルを放り投げて、中学生の時は学生鞄を放り投げて、高校生の時はスクールバッグを放り投げて、ずっと料理をしている母の後ろ姿を見ながら1日の出来事を捲し立てるように話してきたのだ。
短大で東京に行った時も頻繁に手紙を書いて電話をして話し続けてきた。男に浮気され、泣いてたらすぐに東京に来てくれた母だ。俗に言うマザコンである。マザコン上等である。マザコンで何が悪い。
そんなマザコンな私が、母と話が合わなくなってきてしまった。
いつからだろう。
どこからだろう。
遡って考える。
それは自分がしたい仕事、チャットレディとメールレディを見つけた時からかもしれない。うん、きっとそうだ。きっと、あの辺りから歯車が噛み合わなくなってきたのだ。
歯車が噛み合わなくなっても母は母だ。
「朝から抜きたい人もいるのねぇ」なんて話を合わせてくれた。
その頃はまだ1人で仕事をしていたし、辛いこともきっと常人の範囲内だったし「俺は天下を取るぞ」なんて言っていた私だが、稼いでた額も知れていた。今も知れてるけどw
本格的に話が合わなくなってきたのは代理店のオーナーになってからだ。
さらに言えばクラブハウスを始めてからだ。
私にとって事務所ら自慢で誇りである。今月なんて1000万ポイントを突破する勢いである。たくさんランカーの子も輩出した。一晩で顔も出さず声も出さずタイピングで40万ポイントの売り上げを出す子だって出してきた。
そんな私の誇りは、私にとって親孝行でもあり、意気揚々と私は母に「すごいよ!お母さん!もうすぐ年商1億円だよ!」なんて話す。
クラブハウスの話だってたくさん話してきた。
「メンタリストDaiGoとも話したんだよ!Gacktとも話したんだよ!」ときっと喜んでくれると信じて話してきた。
だが、母の反応は私の予想とは違った。
「何そのメンタリストDaiGoとかいう変な名前の人…」「年商一億とかいって…また抱えるものが増えてしんどくなるのに…」「Gacktとかは聞いたことはあるけど…何をしてる人かは知らんわ…」
おかしい。喜んでくれると思ったのに、母は仕事の話もクラブハウスの話もしたくなさそうだ。
それよりも、バナナケーキを作った話や田んぼにキジがいた話、変な形のミニトマトが取れた話をしたがっている。確かにそんな話も楽しいが、一円も金にならない話である。少なくとも会食では死んでもしない話だ。
私が一番したい話ではない。
母と話が合わないかもしれない。昔はあんなに話をしてきたのに、話が合わないかもしれない。
仕事の話やクラブハウスの話を封印して、母と暮らす生活になった。
母と話が合わなくなった話を友人にすると
「それでええんよ!それが成長よ!逆にあんたも子供産んで、いつまでも子供と話が合っててもいかんのよ!みんな巣立って、世間を知って、社会に馴染んで、自分の親から離れていくんよ!それが大人になったってことよ!」
と勢いよく熱弁された。私の読者なら誰か分かるであろう。wネイルのオーナーである。w
そうか、相変わらず、オーナーはたまにいい事を言うな。私は大人になったのか。大人になるとは、母と話が合わなくなることなのか。とても寂しいけれど、これが母の子育てが、成功したことも間違いないな。
母はきっと普通の生活を望んでて、キジとかサギとか見つけて喜んで、ちょっと変わった形の野菜を見つけてテンション上がる、そんなごく平凡な毎日を送りたいのであろう。
私は日本で一番大きな事務所を作りたいから今日も月間4億ポイントを目指して奮闘する。沢山の女の子が助かる未来を信じて別々の道を生きるのだ。
母と話が合わない。
これは母にとって成功、私にとって成長という証であった。
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