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頂くということ

小さい頃、お年玉をもらうことが苦手だった。お年玉をもらって嬉しくないわけではない。「頂く」過程が苦手だった。

新年の親戚の集まりで、久しぶりに会う縁のある幼い私に「お父さんお母さんには内緒よ」と言って、おじさん、おばさんがお小遣いを握らせてくれる。いいですいいですと、申し訳なさから拒否するも結局頂くことになる。

「内緒よ」と言われても、そういうわけにはいかない。両親にもらったことを報告すると「貰うべきじゃない!謝りに行きなさい!」と言われ、もう一度親と謝罪とお礼をしに行くことになる。


「頂く」ということは、ありがたいことである。          しかし、私はそれと共に申し訳なさと罪悪感を抱いてしまう。

小さい頃に、何かを頂いてきたら叱られた記憶が多かったせいか、頂くことに慣れていないせいか…。

一方で、私は「与える」ことは好きだ。「与える」というと差し出がましいが、誰かに協力したり、頼まれることは嬉しい。

それは良い人になりたいからではなく、単に自分の気持ちが良くなるからだ。そう考えると、気持ち良さを感じさせてもらえる点で、頼まれることも「頂く」行為のひとつなのかもしれない。

高校生の時に、友人のお母さんが親切に目的地まで車で乗せて行ってくれるということがあった。私はまた、いつものように手間を取らせてしまうという申し訳なさからお断りした。

押し問答が続き、友人が「もっと信頼してよ」と悲しそうにこぼしたのを聞いて気づいた。

相手のために遠慮していたはずが、相手を傷つけてしまっている。相手の「与える」という好意は、「頂く」ことによって返すべきなのだと。

その日あったことを母に話すと「今度、機会があれば、私たちがその子を送迎しよう」と提案してくれた。

頂くことで受け止め、また与えて、それで友人のいう信頼も築けるのだと分かった経験だった。

それでも今でも「頂く」ことに罪悪感を感じる。
それは、自分に対して「至らない私」「こんな私」という認識が強いせいだと思う。

しかし、逆の「与える」立場から考えてみて、その人に手を差し伸べるのは、それだけの思い入れや価値を感じたからで、それを拒否することは与える側の感性を否定することに繋がる。

「頂く」ことは、決して悪いことではない。
悪いと思ってしまうから、相手のためと思った対応が自分本位になってしまう。

まずは、相手の思いを受け止められる素直さと、適切に相手の立場に立てる想像力を持った自分でいたい。

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