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ただの23歳にとってのフェミニズム


(ただの言い訳)


私はテレビを見ないので、世間の風潮を知るもっぱらの手段はツイッターです。

最近はタイムラインに日本や、隣の国韓国のフェミニズムの話題が盛んですね。
数年前にツイッターを始めた際には見なかったものです。(フォローしているアカウントの偏りは勿論あるので、もしかしたら当時も、知らないところでは盛んだったのかも)


私もよく、「女性はモノじゃない」という趣旨のツイートをします。
でもそれは、私が直にそう感じたとき、そのままの感情をツイートしています。

フェミニストの方、どういう方がそう定義されるのかという知識さえ私はありません。
が、時折彼ら彼女らのツイートをタイムラインで読みます。


その度に私は、とても尊敬します。
「顔も知らない誰かの為に、時間を割いて、エネルギーを使って闘う人がいる」


私には出来ません。
日々の生活で自分の人生すらまともに生きていない、地に足のついていない23歳の私には、それが、なんだか遠い国の景色を見ているようです。


私は賢くも強くも偉くもなくて、善人ではないので、
世の人々がフェミニズムを掲げて闘っていても、
人種差別主義と闘っていても、
動物迫害と闘っていても、
実際に自分や、自分の大切な人の身に降りかかったり
目の前で人が刺されないと涙を流せない人間なのです。

日々の生活や支払い、毎日死なないだけの食事、
家族や周囲と自分の関係のバランス。
そう言ったものに追われながら生きて、その上世の中の不条理と闘うだけのエネルギーもない人間が、
正義を掲げることを放棄し、自分へ害が降りかからないよう、従来の価値観に収まることに甘んじたとして、誰が責めることができますか。


こういう私のような考えが、本当に闘っている人の成果を邪魔していることも知っています。

けれどだからといって彼ら、彼女らは私を責められますか。


責めるとして、それは誰のための闘いでしょう。


いつからか生きていると世界は複雑になりますね。
保育園にいた頃は、嫌なことをされたら嫌だと言って、相手が謝って仲直り。
次の瞬間には一緒におままごとをしていました。

いつから他人の主張と自分との対立意見を、相手の人格にくっつけて考えるようになったんでしょう。


私は別にフェミニズムに反対なんかじゃない。
ただ彼ら、彼女らと同じように闘うエネルギーはないだけ。
自分の周りの半径3mを生きるのに手一杯なだけ。


言い訳に聞こえますね。言い訳です。
ただこう考える23歳が、少なくともこの世に1人はいるってだけです。



完璧なフェミニストでなければノアの方舟に乗れないと仰るなら、どうぞさようなら。
私はこの地球で死にます。



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