『境界を通して見えてくる身体の変容、及び存在のあり方』

Zozoの記事を読んでいたらここ数年考えていたデジタルにおけるファッションの定義やそこを通しての身体のあり方がやっと日本でも言及されるようになったのかと思いつつ今日における教育機関等などではいまだにファッションというものが希薄な様子。

それは本記事とはずれるがファッションという概念自体がそもそも近代以後に作られた概念であるから言及しづらいのかと思いつつ、昨年大学のレポートで書いた内容を思い出したのでここに洗いざらい書き出してみた。

稚拙な内容だがご容認いただきたい。


『境界を通して見えてくる身体の変容、及び存在のあり方』

 コロナによって我々の日常が大きく変容し、オンライン上でのやりとりやSNSの発展に伴い、我々が己の身体を用いずともコミュニケーションを図る事が多くなってきた。ヴァーチャル上のクオリティが次第にリアリティを増し、現実世界との境界がより曖昧になっている今、我々の身体は次第に変容せざるえない状況になっている。
それはメルロ・ポンティが提唱した「世界の肉」のように主体やそこに付随する身体の問題が、メディアの進化に伴い次第に更新し続けている。そういった状況下の中で我々が身体を持って現実世界にいるがそもそも身体とは何なのか、何を持って身体というべきか難しくなっているのが現状だ。
 そもそも身体というのは東洋と西洋では大きく概念が異なる。東洋では元々身体(からだ)という概念はなく身(み)と考え、身体というものが精神と混ざり合って一体化している状態で身体を捉えていた。身体(からだ)という概念は昔は死体を意味しており、身体(からだ)=殻という自身から離れて対象化されてはいなかった。だからこそ古事記や昔の日本の神話では身体という裸体に対し慣用的な表現であったが、明治以降西洋の文化が入ってくると共に身体というものを急に意識をし、西洋以上に身体という意識が強く働いた。
 そういった点において今日におけるアバターは自身の制限のある身体から離れ、化身化することで己の身体(肉体)と距離を保ちながら他者との新たな関わりが可能になった。しかしアバターやSNSでのやりとりで他者とコミュニケーションが発展すると、人々は己の身体というものに対して希薄化しつつあるのではないかと懸念する。現に「どうぶつの森」では前作の売上げ販売数をはるかに超え「あつ森ブーム」と言われるほど社会現象になった。その一因に、コロナ下の外出自粛により現実界で人に会えない状況になってしまった今日においてどうぶつの森内のチャットを通してコミュニケーションを図るといった現象が起きているからだ。また「NOOK STREET  MARKET」というインスタアカウントを通しどうぶつの森のアバターを用いてハイブランドの衣服をコード化したものが出現した。そうしたハイブランドがゲーム内のアバター上の衣服に参入することで今までリアル(現実世界)だけのアパレルだった狭義的視野から離れ、アバターを通してリアルの延長線上として機能する可能性が増えた。

画像1

(出典)https://www.instagram.com/nookstreetmarket/

「NOOK STREET MARKET」の一例 アバター上にハイブランドの衣服を装っている。

且つこうしたアバターの出現とオンラインゲームの需要に伴い、自分の身体なくとも好きな身体と服装を楽しむ事が容易にでき、より装いの幅が広がるようになった。現実ではできなかった服装やジェンダー的観念で今まで着ることが難しかった服装をオンライン上で出来るようになったことで、現実の身体(肉体)よりもオンライン上のアバターに対してファッションを楽しむといった状況が起きている。身体はよりオンラインに対して比重をかけていくようになっている。
 日本のファッションブランド「Chloma」では人間用の衣服と同様にアバター様の衣服を販売した。こうした単に人間対ヴァーチャルといった二項対立的観点で捉えるのではなく、モニターの中の世界とリアルの世界との境界を融合させ合う様なファッションブランドが増えてきた。

画像2

(出典) https://vroid.com/wear/chloma/

実際にECサイトではアバター用の衣服が展開されており、そのアイテムを購入しアバター上に着せる事が可能である。今はまだ単純なパターンでしか出来ないが今後より立体的で複雑なパターンのアイテムも展開されるという。

さらにクロマは2020AWの商品を実際に試着できる様なヴァーチャル空間を開いた。


画像3

(出典) https://ftn.zozo.com/n/ned3b22fde1f1
このヴァーチャルストアでは実際にオンライン上の空間として機能し、オンライン上にいるアバター達は実際にこの空間においてあるアイテムを試着(着脱)できるようになっている。ここで多くのアバターが集まり、試着していたり見ていたりしていると自分が実際にこの空間に存在するかのような感覚も起き、且つこの空間というものが実際に違うどこかの場に存在しているのではないかと錯覚も起きた。

アバター上の衣服だけでなく空間も演出することで、よりリアルとヴァーチャルとの領域が曖昧になっている。
 且つ、今のアバターはより精巧さを増しヴァーチャル内ではリアルな人間と瞬時に判別する事が難儀になってきた。


画像4


(出典)https://i-d.vice.com/jp/article/j57yqx/virtual-model-imma-tori-kate
ヴァーチャルモデルのimma。顔はCGで胴体だけがリアルの人間を用いて合成している。実際にVRなのは一番右のimmaだけである。しかし、画面上では人間とヴァーチャルモデルの区別が付けないぐらいリアリティさを増している。


SNSのインスタで見かけるモデルたちは最初人間かと思って見ていたら、実はVRモデルだったという事が多々ある。しかし、私はそれを知る瞬間までは人間として思っていた。その知った瞬間のこの存在に対して人間と思っていいのかヴァーチャルと思ったいいのか分からなかった。それほどヴァーチャル内のモデルはCGの技術進化によりどちらがリアルな人間なのか判別がつかないまで進歩した。
 この様にアバターの身体もよりリアルになり、ヴァーチャル空間内も次第に構成された時、我々の身体の所在はどこにあるのだろうか。アバター上の身体における衣服上でのファッションも結局は画面上に集約された平面にしか過ぎない。リアリティらしさは担保されつつあるが、そこに空間の所在は発生しない。衣服というリアルな空間において機能していた身体と衣服内の空間はヴァーチャル上では存在しない。
 しかしリアル(オフライン)のハイブランドではアバターがリアリティを持ち始めているのとは逆行し、パターンが複雑な衣服(立体的)より記号的なロゴをあしらったTシャツなどの平面的な衣服の需要が増え、所謂身体を包むための衣服ではなく認識記号のための衣服へと変容した。そうなると我々の身体よりもその衣服が持つ記号性に価値が置き、より平面的なものに重きを置く様になった。こういったリアルとヴァーチャルの境界が双方において働きかける時、何を持ってリアルでヴァーチャルなのか検討しなければならない。
 またヴァーチャル内だけの区分だけに限らず我々が身体を持ってヴァーチャルと戯れている時でさえその曖昧さを実感する瞬間はある。例えばVRなどだ。VRもより視覚内だけでより身体の没入感に言及したツールであるが、実際体験してみると妙な違和感があった。体験している内はその視覚内の情報につられて思わず身体が反応してしまったが、あくまで知覚されているのは視覚と聴覚ぐらいにしか過ぎない。しかし自分がその画面内に存在しているかの様な錯覚を起こした瞬間、自分の身体はその時どこに存在しているのかという違和感があった。実際、伊藤亜紗さんによる「記憶する身体」では幻肢(肢体の一部が欠け、一時的に現実の肉体において痛覚を感じてしまう症状)を抱えている患者にVRを体験させてみると現実以上に欠けてしまった肢体がある様に感じたと記載していた。これは現実世界の時よりヴァーチャルの方が身体の所在を実感したということになる。
 我々のコミュニティーにおいて次第に生身の身体を持って現実空間で関係をもつ必然性は薄くなっているかもしれない。やがて現実世界ではなく仮想現実だけで成立してしまう未来もあるかもしれない。現実の身体は不完全で制約も多く、オンラインの様に望む身体ではないかもしれない。だが、オンライン上だけだと基本データが均一化・画一化し、自分と外界との差異化がしづらくなるではないだろうか。その不完全な身体を蔑ろにするのではなく、その身体があるからこそ自分と外界及び他者と共話し、新たな視点や価値が構築されるのではないだろうか。ただそのメディアに準じるのではなく、それを通して見えてくる新たな身体像、身体とは何か再考させられるものをより考えなければいけなくなってきただろう。そういった一つの側面を示唆するものとして今日のアートが機能されれば、より良い自分との向き合い方だと考える。
 そして更なる社会の更新は他者との相対的な差異の見え方によって新たな未知の価値や意見が生まれる。そうなると全てがよい身体を持てるアバターよりも不完全な身体ではあるけれどもその不完全さを通して新たな価値体系を構築するべきだろう。そうでなければコミュニケーションも生まれない。自分という存在が明確になるには自分一人では存在し得ない。自分の中で完結するのではなく、全く異なる他者と共存する事で自分だけでは見つけることのできない考えや意識が生まれる。つまり自分というものは他者や外界のものが存在して自分という存在が生まれる。他者との相対的判断での差異でしか自分の輪郭を知ることができない。常に無意識に認識していることを意識的になる起因は少ない。そしてどの問いにも答えや正解がない。だからこそ人々はその答えを意識せず過ごすこともあるだろう。しかし、そのままでは知らない間にメディアや政治に搾取される可能性もある。少しでも作品などを通してそこから感じとる違和感や気づきを自覚的に意識することでより新たな思考が拡張し、その内部意識と外部の境界が変容するのだろう。そのために双方の境界をアートを通して変容させ、より新たな視点や価値体系を産出するのではないだろうか。ここで能楽師の安田さんが「境界」という概念において興味深い指摘があった。
 「境界」という言葉は、「境」という語に、「界」がついているのが面白い。臨界点などというように「界」には分け目という意味もありますが、「界隈」などという言葉もあります。(中略)「界隈」とはそこら辺一帯をいいます(中略)そのような曖昧な境界をいう言葉として、日本語には「会う(会ふ)」という語から派生した「あわい(あはひ)」という言葉があります。(中略)「あわい」という言葉は境界を意味しながら、しかし分けるということに主眼をおいていません。むしろ「あう(会う・合う)」、すなわち相手やそこらにいる人たちと境界を共有することを前提とした言葉です。 (安田登「日本人の身体」ちくま新書 p.94)

つまり境界を探ることは新たな出会いの場でもあるということだ。その出会いの場を設けるために境界というのが存在し、そのあたりを共有することで新たな視点をみつける。その輪郭を複層化することで自分という存在が次第に色濃く反映し、それとともに社会というシステムを豊かにするのではないだろうか。そのためにアートよる新たな境界を発露するべきだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?