神を降ろすから、神を宿すへ
・人ではないものを自覚した時
私は、見えたり聞こえたりはしない。
その代わり、直感力は人よりも優れているし、すんなりと自分とは違う思考が頭に流れてくることがある。
きっとそれは、人ではなく所謂、神や高次元のものだと思う。
自分とは違う思考が、思考を廻らす前に頭に流れ込み、すんなりと受け入れられる。
そして、その思考の通りに行動した時、割といい方向に人生が好転した。
その時、自分には少しそういう能力がある事を自覚した。
・神を降ろすとは
自分とは違う思考が、頭に流れ込んできた時、本当に自分とは違う思考なのか戸惑った。
ただ自問自答しているだけで自分の思考なのではないか。
でも、それは違った。
疑問や回答に考えを廻らすことなく、答えを知っている誰かと会話している感触があった。
感覚の問題になってしまうため、明確な違いを言葉にすることは難しい。
しかし、自分の思考でないことは感覚的にわかった。
最初は、あちらの言いたいことがあるタイミングで話しかけてくる。
所謂、天啓のようなもの。
または、なにか判断に困った時には、助言を貰えることもあった。
その時の私は、一言で言うと空っぽの状態だった。
地に足が着いておらず、フワフワした印象を与える。
よく言われることは、「なにを考えているか分からない」。
実は、そう言われる時は大体、何も考えてないし、自分でも自分を分かっていない。
しかし、人の気持ちを敏感に感じ取ることには長けていた。
相手の顔色や雰囲気で、何を考えていて何を感じているか手に取るように分かった。
よく言う「気の利く人」だ。
そんな空っぽの私の体は、高次元がチャンネルしやすい状態だったようで、めでたく神降ろしができるようになった。
しかし、ただの空っぽの器は来る者拒まず状態で、色々なものが入っては出ていく。
体に入れるものの判断が出来ず、ただ消耗していく日々があった。
・神を宿すまで
そんな消耗の日々を過ごしている中で、神を降ろすから宿せるようになったのは、恋愛観の変化によるものだと思う。
話の方向性が、あっちゃこっちゃになるが人生の物事は全て繋がっているし、意外な出来事同士が実は繋がっていたりするものだ。
私の今までの恋愛観は、受け身の愛されたいだけで、与えてもらうために体を提供するようなあまり大っぴらにはできない価値観だった。
自分に自信がなかったのもあるが、言葉や行動で愛情を表現してくれないと不安になって、体のつながりで、それを満たそうとしていた。
誰かが自分の体に入ってくることで、充足感を感じていたのかもしれない。
けれど、体だけの繋がりはとても脆い。
即効性はあるが、継続性はない。
ハイリスク、ハイリターンだ。
関係の希薄性や、罪悪感に苛まれ自問自答を繰り返したどり着いたのは、与える恋愛観だった。
私の場合は、同性にモテることを目指した。
相手を思いやり、相手が求めていることを行動や言葉で表し与え続ける。
これを、やり始めてから降ろすから宿すへ変わった気がする。
要は、他責から自責に変わったのだ。
・神と同化すること
神が宿ってからは、声は聞こえなくなった。
その代わり、必要な時に呼び出せるようになった。
選択に迷った時には、助言を貰えるようなった。
逆に、惑わせるような声は聞こえなくなった。
神と同化することができ、自身の行動に自信を持つことができるようになった。
それもこれも、受け取る側から与える側に回ったからだろう。
降ろすから宿すに変わり、やっと地に足つけて自分の人生を歩んでいる感覚がある。
文章にすると、大層な事のように聞こえるが、きっと些細な事で誰しもが経験することなのだろう。
声が聞こえなくたって、自責思考を身に付けることで、確固たる自分だけの神を宿せるはず。
そして、今までよりも力強く自分の人生を歩めるはず。
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