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◎犬の思い出と、毛



犬が死んだ。
家に来てから9年と少し。
ペット用品店で見かけては「いつか使う時が来るのかなあ」と思っていた犬用おむつも、結局一度も手に取ることがないまま、突然のお別れだった。

「死んだよ」と連絡を受けた時も、それがあまりにも急だったので、電話越しで泣いている母に何と声をかけていいのかわからなかった。というか、実感が全くなかった。

犬が?死んだ?―本当に?

聞けば、亡くなるほんの数時間前まではいつも通りだったのだという。
明日にでも火葬に出すというので、実家に帰って最後の見送りをすることにした。


亡骸は、いつもそうしていた様に、お気に入りのブランケットに包まれてソファに横たわっていた。
事前に知らされていた通り、目がうっすら開いていて、ちょっと寝ぼけているような表情だ。「死んでいるよ」と言われなければ、そのままいつものように起き出して水を飲みに行きそうな雰囲気さえあった。


「おうい」
声をかけて、名前を呼ぶ。当たり前だけれど反応はない。


額を撫でるために、手を伸ばす。
その犬には額に特徴的な白い模様があって、よくこの部分を撫でられていた。毛流れに沿って指をすっと動かして、驚いた。


…あれ?


不思議だった。
身体を撫でても「死」を感じられないのだ。



「死」というのは、いつでも実感のなさがつきまとう。
頭が混乱していたり、あまりにも急だったり、受け入れられない気持ちから「嘘だ」と思ってしまう。目の前にその亡骸があっても、その事実と気持ちがなかなか結び付かない。
そんな思いと、現実の距離を埋める方法のひとつが、「さわる」行為だと思う。


今までは、飼っていた動物が亡くなった時には、その硬くなった身体を触って実感した。
―この身体が、今までのようにやわらかく動くことはもうないんだ。

大切な人が亡くなった時は、その皮膚が生前には考えられないくらい冷たいことで悟った。
―この手が、今までのように温かくなることはもうないんだ。


もちろん様子を見たり、反応がなかったりすることが死を実感させることもあるけれど、私にとってはやはり「感触」というのが、死を感じる大切な手段だった。


犬の額を撫でた時、その毛の感触があまりにもいつも通りだったので、これはひどい冗談なんじゃないか、何か勘違いしているんじゃないかと思った。
つい、そう思ってしまった。
しかし、そのまま手を小さな背中に手を伸ばして撫でると、その毛の下の肉が硬直しているのがわかった。
抱き上げてみても、重力でだらりと身体が下がることがない。
完全に固まっていて、横たえられたその格好のままだ。
そこで、涙が止まらなくなった。


毛はこんなにもそのままなのに、その下の身体がどうしようもなく死んでしまったことを伝えていた。


考えてみれば、毛は死後もその感触を変えない。
やわらかく、ふわふわとして、撫でる手を拒まない。
特に全身にびっしりと毛が生えている犬は、いつでもそのやわらかさに守られていて、こちらに皮膚の色を見せることもないし、体温を直に感じさせることもない。
ああ、私たちは、犬と直接触れ合っていたようで、実は毛を介してコミュニケーションを取っていたんだなあ…と、その時初めて気が付いたのだった。



ペットの死後に、その毛を使って思い出の品を作れるサービスがあるらしい。
調べてみると。毛を用いたペンダントやキーホルダーが出てきた。「遺毛」と呼ばれ、サービスにもよるが主に3cm以上の毛があれば制作可能だそうだ。
火葬が数時間後に迫る中、母に「こんなサービスあるけど、どうする?」と聞いた。すると母は困った顔をして「うーん…毛がないしなあ…」という。
「え?」と言って促されるままブランケットをめくると、身体の毛が短く切りそろえられていた。
「一昨日にカット行って、綺麗にしてもらったばっかりなんよ」と言う。
「え~!タイミング悪~!!!」と言って、なんだかおかしくて笑ってしまった。
そっかあ。最後は綺麗なまんまで死んだのかあ。
死んでもなお、どこかひょうきんなところのある犬だった。


結局、「せっかく切りそろえた毛を切ったらかわいそう」ということで、身体はそのまま火葬に出した。


あの毛はもう永遠にこの世から失われてしまったけれど、そのやさしい感触は、これからもしっかりと私の指に残り続けていく。




(もしもしからだ ⑭)