見出し画像

〇生き物が食べ物になる瞬間


祖母は、決して鶏肉を食べない。
その態度は徹底していて、料理の一部に鶏肉が使われていればお皿の端に綺麗に避けておくし、家族全員が晩御飯にケンタッキーを食べている時でも、自分は黙々とコールスローを食べる。
気になって、幼い頃にこっそりと母親に聞いたことがある。
「どうしておばあちゃんは鶏肉を食べないの?」
どうやら祖母は子供時代に、飼っていた鶏の屠殺現場を見て、それ以来鶏肉をまったく食べなくなったらしい。
何となく聞いてはいけないように感じて本人には直接尋ねなかったものの、彼女は何か約束を守るように、鶏肉を一度だって口にしなかった。おいしそうなにおいを立てている料理を前にして、それでも人生をかけて口を付けない覚悟というか決意というか、そういったものを感じて私はただただ「すごいなあ」と思って見ていた。

一方で、「そこまで?」という気持ちもあった。
祖母は、牛や豚など、鶏以外の肉は食べた。しかし、牛だって豚だって、言ってしまえば同じ境遇なのだ。たまたま鶏の屠殺現場を見たからと言って、鶏だけ頑なに口にしない姿を不思議に思っていた。
そんなにも強く彼女を決心させた幼少期出来事と言うのは、どういうものだったのだろうか。


大学生の頃、突然に食の過程に興味が湧いた時期があった。
思えば、当時はそういった「食と命」がテーマの作品が多く世間に出ていた。小学校の教師が豚を飼って児童たちに命の授業をした実話の映画「ブタがいた教室」や、大阪の精肉店の様子を収めたドキュメンタリー「ある精肉店の話」などが話題になっていたし、出版業界でも「わたし、解体はじめました(畠山千春)」や「ぼくは猟師になった(千松信也)」など猟師の書いた本が多く出版されており、社会的に注目が集まっていた頃だったのかもしれない。
京大の酪農の授業にも参加した。
以前のコラムにも書いた、松阪牛の牛舎を見学した経験は忘れがたいものになった。狭い牛舎にたくさんの牛が並んでいる姿。サシがたくさん入るよう育てられ、太ったことにより立ち上がれなくなった牛たちの現実。その後見た牛の屠殺現場の映像では、命を奪うという行為さえも淡々と行われていた。ベルトコンベアのようなものに乗せられて機械的にどんどん肉になっていく牛たち。そのあまりにも効率的な作業にぞっとしたのもつかの間、皮が剥がれ、切断され、枝肉としてつるされてしまえばそれはもう「おいしそう」の対象になっていた。

ショックだった。
牛が生きている時には「この育て方で牛は不幸じゃないのか?」「本当に人間はこんなにたくさんの肉を本当に必要としているのだろうか?」などと思うのに、スーパーに並んでいる姿を見ると「まあ仕方ないのかな」という気持ちになってしまう。
日々人間用に牛が管理され、スケジュール通りに処理され、飲食店やスーパーに予定通りの数が並ぶ。特別に意識はしないけれど、それってよく考えるとものすごく恐ろしいことじゃないのか。そのことを当たり前として享受している私たちって、ある感覚がすっかり鈍ってしまっているんじゃないか。

そして、祖母のことを思い出した。
祖母は、幼少期に屠殺現場を見たことを、それ以後鶏を食べられなくなるほどの経験として重く受け止めた。それくらいに、命と食が彼女の中で重く結びついているのだ。
それに比べて私はどうか。
問題に気づいても結局「仕方ない」と食欲に負けてしまう私は、もはやその動物たちが「生き物」の段階から「食べ物」としてしか見れていないのかも知れない。祖母がかつて経験したショックすら受けられないほどに、いまの物流の流れに慣れきってしまっているんだと思った。

そんなことを考えていたら、先日映画「僕は猟師になった」を見た際に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
この映画は、前述の本の作者である猟師の千松さんに密着したドキュメンタリーだ。動物を罠猟で仕留め、とどめをさし、解体し食べる姿を捉えた映像はなかなか興味深いものだった。
しかし、この映画で私が最も印象的だったのは、動物に刃を突き立てる瞬間でも、皮をはいで食べ物にする瞬間でもなかった。

それは、罠にかかった動物に、猟師がとどめをさすために近付いていく瞬間だった。

その時、鹿も、猪も、どの動物も鳴いていたのだ。
ケーンケーンと甲高い声で鳴いたり、グオ、グオと相手を威嚇する野太い声で鳴くものもいた。

これは動物の命乞いだ、と感じた。
その声を聞くと、息が詰まる。言葉は決してわからないのに、その動物たちが「やめてくれ」と言っているのがわかった。最期の時まで、決してどの動物も諦めてはいなかった。

その時ふと、「祖母はこれを聞いたのではないか」と思った。
動物が、動物として、最後まで自分を食料として受け渡さない姿。祖母はもしかしたら、その姿をずっと覚えているのかもしれない。だから彼女にとって、鶏は「食べ物」ではないのかもしれないと思った。


「生き物」から「食べ物」の流れを何の抵抗もなく受け取れてしまう私は、その姿を想像力で補うしかない。
今日食卓に上がった肉にも、かつてそういった声を上げた瞬間があったのだと想像することから、まずは始めようと思っている。



(食欲をさがして㊱)