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◎あなたも生きてた日の日記㊺ 強い言葉の用法容量

安住の地『凪げ、いきのこりら』の公演のため、シアタートラムに小屋入りした。
実際に公演を行う舞台に、風景が着々と立ち上がってきている。

朝からスタッフと劇団員が集まって挨拶をし、その後は照明、舞台、音響など各部署に別れてすばやく機材を運び込んでいく。
舞台には活気ある声が響き、時折笑い声が聞こえるなど、和やかな雰囲気だ。

思えばこんなに人がたくさん関わる現場は随分久しぶりで(コロナ禍で人数が制限されていたり、そもそも大規模な公演を打つことを避けていた節がある)、ヘルメットをかぶって劇団員総出で各部署を手伝うことにもどこか懐かしさがあった。
ハケ口の床を黒テープで処理している時、近くにいた付き合いの長い劇団員が「大学時代とやってること何も変わらんな」と言った。
思えば10年以上、同じようなことを繰り返している。色々変わったようで根本は何も変わっていない。

それは作品の作り方でも同じだ。
脚本で言えば、台詞一つにおいても「これ必要?本当に?なぜここでこの長さ?この言い回し?」と直前まで悩んでいる。

演出もしかりで、「あそこのシーンはもっとこういう意味も持たせられるんじゃないか。じゃあ今のやり方を変えた方がいいんじゃないか」と考えて、シーンごとに少しずつニュアンスを調整していく。
「調整していく」と書くと簡単だけれど、都度役者と話して、試して、また話して、お互い納得する形に落とし込むまで繰り返す。
すんなりと終わることもあれば、何時間も要する場合もある。

特に今回のような共同脚本・共同演出の作品では直前まで本当の意味での全貌が見えていないことが多い。すべて自分で執筆・演出しているなら全体の流れも掴みやすいが、もう一人が書いたシーンの意味や演出の効果は、何度も見てやっと腑に落ちる場合も多い。本番を観ながら「あ、あれってそういうことを目指してたのか」と気づくこともあるくらいだ。

正直に話してしまうと、今回はこれまでで1番くらいまだ迷っている。(あと2日で開幕なのに!)
難儀しているのは終盤、物語の流れがガラッと変わるシーンだ。

『凪げ、いきのこりら』のテーマは「不協和音の先にある共生」だ。共同脚本の岡本さんが「異種間の戦いを書きたい」と言った通り、劇中では登場人物がものすごく戦う。血みどろの戦いを描いて「さあ終わりが見えた」と脚本を書く手を止めた時、1番苦しんだのはその先だ。
この終わりには、一体どんな言葉がふさわしいのだろう?

結果、物語の後半にかなり強い言葉を持ってくることになった。一人で担当する脚本なら絶対にこんな言葉は出てこないだろう、と思いながら書いた。その部分がどうしても引っかかっていた。強い言葉は、人を元気づけることもできるし、「そんなわけないだろ」と反感も引き起こすこともある。用法容量がすごく難しいのだ。

強すぎるかな、と何度も思って、削って、でもやっぱり違う気がして戻して、さらに書き直して、かといって回りくどい言葉ではだめなのだと思って、また最初の言葉に戻した。何度も考えた結果言えることは、「あそこにあの言い回しを持ってこないとダメだった」ということだ。

その言葉と、いま、役者と一緒に日々向き合っている。少しの音量や音程、動きで随分印象が変わってしまうその部分を、どう言うかでずっと悩んでいる。

結末は、本番まで私たちにもわからない。ただ、その言葉は確実に今もじっと劇場に潜んでいて、あなたに聞いてもらいたがっている。

安住の地『凪げ、いきのこりら』、今週末シアタートラムでお待ちしています。


(あなたも生きてた日の日記㊺ 身体表現について16)