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◎あなたも生きてた日の日記㊱ 誰にも聞かれなかった話を聞くこと


地方に滞在制作に行くようになって、人に話を聞く機会が増えた。
普段はそれを「リサーチ」という名で呼んで、なんだか大層なことをしているようだけど、やっていることは至って単純、ただ会話をしているだけだ。

「今日はずいぶん冷えますね~」

こういう具合に、まずは気候の話から入る。昨日は天気がよかったのにねとか、朝はえらく寒いねとか、話題が少し広がったら、そこから会話を転がしていく。
庭先で会った人なら植物のことを聞いたり、駅の待合室なら行き先を聞いたり、時には「アーティストとしていまこの地域に滞在していて、この町のことを聞かせてくれませんか」と直球で聞くこともある。滞在先によっては、「関西から来てるんです」と言うと「関西の人と話したの人生で初めてだわあ」と喜んでくれるお年寄りもいて、日本の広さと人間の生活範囲に思いを馳せることもしばしばだ。

滞在中に話を聞く方法としては主に二種類あって、このように「行き当たりばったりパターン」と、「きちんとアポイントを取って話を聞きにいくパターン」だ。
どちらも楽しいのだけど、自分の性に合っているのは前者なのではないかと気づいた。
それには、いくつか理由がある。

「ぜひ紹介したい人がいるんです」

そう言われて、町の歴史に詳しい方や会社の方に繋げてもらう。作品づくりに必要な土地の情報をどばっと得られるのは、こういう場をセッティングしてもらえた時の方が圧倒的に多い。しかし、話し終えた後に、毎回ひとりで反省会をしてしまう。

「いまの話は本当に【その人から出たもの】だったのか?」

紹介していただいた場で応じて下さる方は、もう何度も私のような「他地域から来た人」に話をしていて、内容や語り口が固定されていることも多い。また、やはり土地の「代表」として話す部分が大きく、その人ならではの考えというよりは、地域にとって無難な意見を総合的にお話いただくことが多いように思う。
もちろんこれは決して悪いわけではなくて、総合的な意見を聞かせていただくことで見えてくることもある。一度で理解がぐっと深まる。しかし、最後にどこか物足りなさを感じることが多いのだ。
また、何より気になっているのは、こういった「代表」の場に出てお話をされる方は圧倒的に男性が多いという点だ。


やはり「代表」の役職についている方は男性が多い。少しずつ変わってきてはいると思うけれど、その人々の語りの中に女性の目線は入っているのだろうか、などと思うことも度々ある。
特に地方ではその傾向が強く、歴代の長の写真が並んだ部屋でずらーっと男性ばかりの肖像に囲まれると、やはりウッとなる。この背後で、女性たちは一体何を考えて生活を送ってきたのだろうか、と思う。そう思うので、結局ひとりで道をふらふらと歩き、出会った人に話を聞く方法が合っているのだ。

抑圧されてきた、とは言わない。
けれど何かを確実に「我慢してきたのだな」と思う語りに出会うことが、ある。

お天気の話から始まったはずだったのに、ついさっきまで和やかに話していたはずだったのに、いつの間にか戦争の話や、嫁に来た時の不遇な環境や、本当はこうしてみたかった、という生き方の話になっていることがある。
その表情は、どこか遠くに向いていて、目は確実に「その人が目の前で見たこと」をいま再び見ていて、でも私にはそれが見えない。つらかったのだろうな、とこちらにまで伝わってくるような語りは大体淡々としている。そのことがますます、本人の人生における出来事の大きさを思わせる。

話を聞いている時、自分の存在がすーっと消えていくような感覚に陥る。この話を聞くべき人は、本当は別にいて、でもそれが叶わなかった。だからこうして突然やって来た余所者が、話を聞く立場にたまたま立っているのだ。そこにアーティストだからとか、自分だったからとか、そういう視点は潔いほどない。だから私は誰でもない他人になって、ただの耳になって、その人の話を静かに聞き続ける。

「ああ、本当に今まで誰も、この声を聞く人はいなかったのか」

しみじみそう感じる語りの最後には、たぶんもう二度と会うことはないだろうその人と、手を振って別れる。


アーティストという名称で紹介されることにようやく慣れてきた最近、その名前が一体なにを指しているのか、自分なりにある考えに至った。
アーティストとは、社会の中で名前はないけれども、本当は誰かがやらなくちゃいけなかった仕事の、総称なんじゃないか。

誰にも聞かれなかった話を聞くことで少しでもそこに貢献できるとしたら、自分にも少しはできることがあるかもしれない。最近はそんなことを思っている。


(あなたも生きてた日の日記㊱ 身体感覚について⑥)