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◎ため息もつけない程つらい時に


「はい、じゃあまず吐いてー」
高校生で初めて演劇を習ったとき、発声練習で言われたこの一言に戸惑ったことを覚えている。
「はい、吐いてー」と促されるまま、その時の自分の呼吸のリズムを一旦止めて、口から息を出すことに集中する。
「す、すう、すうー…」
しかし、「息を吐く」ということを意識すると、急にうまくできなくなる。
息の流れが途切れ途切れになって、体内のものをまだ吐ききらないままに限界が来てしまう。
できるだけ出し切ったら、またやってくる「吐き」のために次はたくさん空気を吸う。そうして、徐々に空気の量を増やしていき、「息を吐く」行為に慣れていく…。


呼吸って不思議だ、と思う。
一日に何回もやっているはずなのに、意識すると途端に何だかうまくできない。
「吸う」の感覚はまだわかりやすいのだ。体内に温度の違う気体が入って来るのがわかるし、そうして身体がふくらむと少し楽になった気がする。
でも、「吐く」はとても曖昧だ。吐き続けていると、胸あたりがぎゅーっと苦しくなっていく。これは本当に息を吐けているのか?もしかすると、ただ筋肉を縮めているだけなのでは…?


そこで気付く。
「呼吸」って、もしかすると思っているよりもずっと難しい行為なんじゃないだろうか?


先月末からあまり好ましくないことが続発して、気持ちが崩れてしまった。
頭がぼーっとして、なんだか物事が考えられなくなる。ついさっきのことが思い出せない。記憶が所々飛ぶ。
他にも、喉の奥、胸の上、器官の間にずっとなにか詰まっている感じがある。無意識の食いしばりが止まない。毎晩わるい夢ばかり見て目覚めるので、休めた感じが全くしない。

思い当たる原因がいくつもあった。つらいので対処しようとしているのだけれど、数が多すぎて結局その全部に手を付けられない。そうした状況が一週間続いた頃、特に気合いをいれなければならない打ち合わせがあった。

その打ち合わせに向かう電車の中で、猛烈な頭痛に襲われた。胸が苦しくて、身体を小さ丸める。見えるものや聞こえる音がぶわーっと一気に体内になだれ込んでくる感じがする。

あ、やばい、と思った。
これ、このまま目を開けていたら、すべてのことを受け止め切れなくてパンクする、と思った。そうなってしまってはもう二度と電車に乗れない気がした。それだけは避けたい、と駅に着くまでずっと固く目を瞑ってやり過ごす。

駅に到着し、身体にぐっと力を入れて待ち合わせ場所に向かう。
約束のその喫茶店で、メニューを見て初めて「あ、今日何も食べていない」ということに気付いた。驚くことに、それまで全く空腹を感じていなかったのである。「緊張していてお腹が空かないんだな…」と思い、結局コーヒーのみを頼んだその打ち合わせは何とか無事に終了した。


帰りの電車で、気が少しゆるんだのか、おおきなため息が何度も出た。
はあー…。
普段電車でため息をついている人を見ると、なにか不満があるのかしらと思って少し不穏な気分になるが、今日はまさにそれが自分だった。

はあ…はあー…。
不穏な感じが出ているよなあ、嫌だなあと思っても止められない。
というか、気づけば、ため息をすることでしか何だか息をしっかりと吸えていない。
そこではたと「息ははまず吐かないと、吸えないからね」という、先の演劇の発声練習での言葉を思い出した。

考えてみれば、最近呼吸がすごく浅かった。
上半身にぐっと力が入っているせいで、吸えないし、吐けない。
そうした時に、でも溜まり溜まった何かを吐くために、普段の呼吸と違ったリズムの「ため息」を連発して、何とか帳尻を合わせようとしていたのかもしれない。


ああ、そうか。ため息をしている人は、結局息の流れがどうしようもなくなって、つらくてああいう形で調整していたんだな…。
自分がそのぎりぎりの行為を「不穏だな」と勝手に感じていたことが、急に申し訳なく感じて泣きそうになる。
はあー…と再び大きなため息をついた時、突然ぐる、っとお腹が鳴った。

「…あ」
その日初めて、空腹を感じた。
同時に、身体が機能を取り戻しつつあることを自覚し、心の底からほっとしたのだった。
空気が、やっと、お腹にまで回ったのだ。
いま自分が吸った空気が、胸の下まですべり込み、お腹に入ってその空洞を揺らす。そうして、やっと、「自分はお腹が空いている」ということを理解できたのだった。

そうだった。本当は、今までもずっと、こうやって身体はずっとサインを出してくれていたのだ。


この身体がひとつの空気の通り道になって、やっと思う。
今、ため息をつけないほど追い込まれている人がいたら、聞いてほしい。
誰とも喋らなくても、何も食べられなくても、いい。ただ、吸って吐くことだけは、どうか続けてほしい。
黙って、目を固くつむって、自分の中に空気が入る感覚だけを受け止めてほしい。
そうすれば、いつかふっと、少しずつでも息がしやすくなる状態がくると思う。

その時を願って、私は今日も少しずつ息を吐く。



(もしもしからだ ⑪)


Photo by. Hiroe Yamashita