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◎あなたも生きてた日の日記44 無言でいいから電話して


「ぜひお顔を見てあげてください」

お葬式の最後、そう言って故人の顔を見るように促されることがある。こういう場面では毎回「見たくない」と思いつつ、断ることがはばかられて、流れに乗って棺桶の前まで足を運んでしまう。

「眠っているみたいだね」
「生きてる時と変わらないね」

そう言って人々は泣く。
でも、心の中では思っている。生きてる時と同じなものか。その身体は何かが完全に失われて、今まで通りにならない現実を痛いほど伝えている。
ただ、本当はわかっている。皆そんなことは百も承知で、でもこうした言葉を選ばざるを得ないのだということは。

それでも、毎回理不尽な怒りを覚えてしまうのは、自分の動揺が思った以上に大きいからだろうか。もう本人の意思で操れない表情を見てしまったことに、罪悪感を覚えるからだろうか。


人が、突然生きるのをやめてしまう時がある。そういう時の周囲の反応は、当たり前だけど人それぞれだ。故人に何かできなかったかと悔いる人、昔を懐かしんで嘆く人。悲しみにひたすら涙を流す人。
私はと言うと、それらの間をうろうろしている。その人が自分で死を選んだことに対しては何も言えない。「もしこれが本人の必死の決断だったとしたら、他人がとやかく言うことは決してできない」と思っている。だから「悲しい」としか言えない。あなたにもう永遠に会えないことが、ただひたすら悲しい。

この一年、「実は心の病気になっちゃって」という告白を随分聞いた。
それはうんと久しぶりに会う時や、時間と距離が開いた手紙で告げられた。
その中で、「もう無理っていう状況で、相談できる人がどんどん少なくなってるよね」という話になった。
実家にいる人、仕事が忙しい人、子どもがいる人、親の介護をしている人など、人生の状況が目まぐるしく変わっていく中で、連絡を取ることが難しくなっている。「いま向こうは忙しいだろうな」と想像して、電話やメールを自制する。

何より「向こうの時間を奪ってしまって申し訳ないって思っちゃうよね」という言葉が響いた。要は気軽に甘えられる人が少なくなっているのだと思う。

私もそういう傾向があったのだけど、今年、「もう本当に無理」と思った時に、思い切って遠くに住む友人に電話をかけてみたことがあった。
その時相手に頼んだのは、「ごめん、何も聞かずに飼い猫の話して」ということだった。

突然かかってきた電話にも関わらず、友人はその後30分くらい「飼い猫がお腹に飛び乗るようになって、重いし結構痛い」「それまでは朝起こしてくれてたのに、早く起きなきゃいけない時に限って起こしてくれない」等という話をしてくれた。
その間こちらはたまに相槌を打ちながら泣き続けた。

すると、徐々に気持ちが落ち着いてきたのだ。最後は他愛もない世間話をして、「大丈夫?」「大丈夫」と確認して、電話は終わった。
この出来事は、私にとって驚きだった。
現状とか、つらい気持ちを伝えなくても、こうして電話をするだけで何かが変わることがある。誰かの声を聞いているだけで、気持ちを変えることができる。

もし、今つらい気持ちでいる人がいたら、「ルールを決めて電話すること」をおすすめしたい。ルールは何でもいい。あってないようなものでいい。
「今日あった出来事を話してほしい」でも「30分だけ電話を繋ぎっぱなしにしてほしい」でもいい。もはや無言でもいいのかもしれない。

ただ、何も言わずにいなくなる前に、なにかひとつ頼って欲しい、と思う。また会えるその日まで、どうか無事でいてほしい、と思っている。


(あなたも生きてた日の日記44 身体感覚について⑮)