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どこだれ ㉑ もういない存在を語り継ぐこと


大学生の頃、他学部の授業によく潜り込んだ。ある日たまたま出たメディア系の授業に、ゲストスピーカーとしてある音楽プロデューサーが来ていた。名だたるミュージシャンの曲をプロデュースしたというその人は、自己紹介としてこれまで手掛けてきたMVの映像を見せ始める。その中に、X JAPANのHideの作品があった。当時私は、Hideの楽曲を使ったミュージカルのチケットを知人にもらったことから、勉強しておこうと曲を聴き始めたばかりだったので、偶然に胸が高鳴った。授業の最後の「何か質問があったらいつでも来てください」という言葉を真に受けて、MVの感想を伝えようと軽い気持ちで向かった。
「はい、何でしょう」と笑顔で対応してくれたその人に、「最近聴き始めたばかりで何も知らないんですが…」と前置きをした上でHideの名前を出すと、はっと表情が変わった。真剣なまなざしで、こちらに向き合ってこう言った。
「新しくHideの曲を聴き始めてくれる人がいてくれるのは嬉しい。Hideのことなら何でも話すよ」
語り口から、この人は、Hideの亡くなった後にささやかれた様々なことが気がかりなのではないかと思った。
「あいついいやつだったんだよ。だから、あいつのことを知ってる人間が、後世にしっかりと伝えなきゃと思ってるんだ」
その言葉を聞きながら、亡くなった後に、付き合いのあった人間にこう言わせるHideとはどんな人物だったんだろうと思った。輝かしい功績や賛美の声よりも、なんだか無性に一人のミュージシャンに興味が湧いた瞬間だった。

先週から新潟のゆいぽーとに滞在し、作品制作のためのリサーチを続けている。テーマは「越後瞽女(ごぜ)」。三味線を持ち歌い歩く盲目の女旅芸人のことで、一時は全国に見られたが、徐々に関東甲信越周辺が代表的になり、とくに新潟は、最後まで瞽女のいた場所として知られている。まだラジオもテレビもなく娯楽の少なかった時代、険しい山々を超えて唄を届けに来る彼女たちは様々な場所で歓迎され、親しみを込めて「瞽女さん」と呼ばれていた。
彼女たちが歩いた場所が貧しく山も深い場所だったこともあり、養蚕の地域と重なっていたことから、私は瞽女さんを知った。場所によっては「瞽女さんの唄を聴かせるとよい繭が取れる」として蚕室に入って唄ってもらうこともあったという。瞽女さんとは、一体どんな人々だったのか。できる限りの書物を読みながら、高田や長岡、飯山など縁の深い地域を訪れて話を聞くことにした。

しかし、最後の瞽女と呼ばれた小林ハル氏は2005年に105歳で亡くなっている。高田瞽女と呼ばれた人々が最後の旅を終えたのが1964年。実際に村で瞽女さんを迎えていた人々も現在は90歳を越え、お話を聞くことは難しいのが現状だ。

一方でそうした瞽女文化を残そうとする人々もいて、「自分は直接聴いたことはないんだけど…」とか「彼女たちのことを知って、歴史から消えてしまうのは悲しいと思った」と語り継いだり、資料館をつくったり、あるいは瞽女唄を習って歌い継ぐ人々もいる。
ただ、悲しいかな、聞けば聞くほど「生の声」ではないんだなと思い知らされることも多い。生前に瞽女さんにインタビューした言葉が載っている書籍は限られており、また語った瞽女さんが一握りのこともあって、瞽女文化を説明しようと関係者が語るエピソードはどれも似通っており、どの出典なのかまでわかる場合も多々あった。

何より気になったのは、そういった人たちの瞽女さんについて語る時のどこか熱を帯びた話し方だ。

「目が見えないのにあんなに頑張っていて」
「何ごとにも感謝をしていたからこそあれほど心が清らかだったのだ」
「礼儀正しく信心深くて素晴らしい人だ」

熱心に語られる度に、違和感がつのっていった。その裏の「そうならざるを得なかった事情」が見え隠れするからだ。あの時代に女性が盲目で暮らしていくために、一体どれほどの努力をしなければならなかったのか。
ただ、熱を持って瞽女さんを語る人々を一概に否定することもできない。ある人がぽつりと言った「もう本人がいなくなっちゃってるからね。いない人の話をどうやって語り継いでいったらいいのかね」という言葉がずしんと響く。
瞽女さんのことを知らない人に、「この文化をここで絶やしちゃだめだ」「語り継がねばいけない」と思ってもらうためには、彼女たちを素晴らしいと感じてもらわなければと焦る気持ちがあるのだろう。
しかし、継承するためには本当に「清らか」でなければいけないのだろうか。瞽女さんはいつまで礼儀正しく、素晴らしい人でいなければならないのだろうか。

そこでふと、ある女性のエピソードを思い出した。子どもの時に道を歩いている瞽女さんがいると、母親が決まって「道をあけてあげなさい」と言ったという。言われた通り端によけると、すれ違いざま、瞽女さんが小さな声で「ありがと」と言ってくれたという。その「ありがと」の言い方が大人ぽくて、子どもだったその人にはまだ盲目がどういうものかわからなかったけれど、どきどきしたと教えてくれた。それ以来その「ありがと」が聞きたくて、瞽女さんがいると道をよけたそうだ。
その言葉を聞きながら、わたしは初めて「像」ではなく生きた瞽女さんの姿に触れた気がした。本に大々的に載るようなエピソードを聞くよりも、ずっと瞽女さんのことを身近に感じられた。

その時ふいに、いつか聞いた「あいついいやつだったんだよ」という言葉を思い出した。語り継いでいくために必要なことは、案外、偉業よりも「いいやつ」と形容されるような身近なエピソードなのかもしれない。