Silver Lining 第三話
「私についてくれば、もっと素敵になるよ」
シルバの前に突如現れた女は、彼と視線を合わせるように屈んでそう言った。
「……素敵に?」
「そう、素敵に」
女は暑そうに高価なシャツの襟元をはためかせる。シルバの着ていた緑の半袖シャツはもう何年着ているかわからないほど古く、彼はそのシャツが大嫌いだった。袖を通すたびに、自分が成長していないことを思い知らされるからだ。
「そのシャツ、すっごく素敵。同じようなやつ、ハリウッドスターの息子が着てたよ。SNSで見た」
「このシャツを?まさか」
本当かどうかは、分からなかった。シルバはSNSをしていないし、それどころかスマートフォンすら所有していない。所有する必要がないと言った方が正しいだろうか。
「これだよ?」
シルバは少し後ろに下がって、成長期をねだるようにシャツの裾を伸ばしてみせた。女は唇を横に伸ばし、細く硬質な手で彼の頭を撫でて呟いた。
「ハリウッドみたいに、お金持ちになりたい?」
女は、さらに唇を伸ばす。隙間からはシルバがこれまで見たどの歯よりも白い歯が顔を出し、彼の瞳を吸い込んだ。美術館に収容されている彫刻と何ら変わらない白さだが、彼はそんなことには気づかない。
彼女はこの街の誰よりも清潔で、美しく、煌びやかだった。この街の人間は男だろうが女だろうが、総じて年中同じ服を着て、歯は黄色く、いつも嫌な工場排水の臭いがする。
シルバはうまく返事ができなかった。女の瞳に吸い込まれそうになっていると、彼の背後から枯れた声がした。
「姉ちゃん、見ねえ顔だな」
「師匠……!」
シルバは振り返り、久々に陽の目を浴びる師の顔を真下から見つめた。いつの間にか彼は師の腕の中に閉じ込められており、鳥籠の中のインコのようだった。
「ただの観光客ですよ」
「こんな貧乏な街にか。金持ちの道楽も随分趣味が悪くなったな」
「素敵な街ですよ?」
女は立ち上がり、じっと老人の顔を見つめる。互いが視線を交えた時間はほんの数秒だったが、砂埃が舞う貧民街にはこれまでにない緊張感が漂っていた。
「お孫さん、ですか?」
「そんなんじゃない、ただのガキだ」
「ガキだなんて、可哀想な呼び方」
女はピンクのヒールを鳴らし、時計回りにゆっくりと街を眺めた。規則良く地面が叩かれ響いている、ヒールを履く女なんて、働き者ばかりのこの街には存在しない。街は次第に彼女に気付き、瞳を鋭くして挙動を見張っていた。
「このガキに何の用だ」
「いえ、別に用なんて」
「さっき話をしていただろう、お前の目は何か嫌な感じがする」
「別に嫌な話でも、この子に害を与えるような話でもありません。ちょっと他の方とは違う臭いがしたから、話しかけてみただけですよ。わ、もうこんな時間!早く帰らないと」
女は左腕に付けた時計に目をやると、長い髪を掻きむしって慌ただしく鞄を漁り始めた。取り出したのはピンク色の香水、二、三回うなじ付近へ吹き出すと強烈な匂いが街を覆う。オレンジとローズの混じった、上品で気高い香り。シルバは一瞬、トリップした感覚を味わった。
女は二人の存在を忘れているかのように独り言を呟いた後、背を向けて歩き出した。かと思えば「あっ!」と声を出し、勤勉な日本人のように回れ右をする。慌ただしく忙しない彼女に、老人は鋭い目を向けた。その目は、シルバには見えていなかった。
「ねえ」
女は振り返り、シルバと目を合わす。
「君がスプレーアートを続ける限り、私は必ず君の側にいるよ。ファンになっちゃった」
女はまた歩き出す。気がつくと通りの人間全員が彼女を見つめていたが、ハミングを口ずさみ、ヒールも構わずスキップをする彼女には届いていないようだった。
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