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noteという小さな村の住人

最近、芸能人のエッセイにハマっている。

芸能の世界で成功されている方々は、
私のような一般人にもあるような感覚も持ちつつ、どこか違った角度から世界を見ているような、そんな感性を持っているところが素敵だと思う。
そしてその感性を通して見た世界を言語化するのが上手いのだ。

最近でいうと、誰もが知る有名な芸人であるオードリーの若林さんのエッセイ、『ナナメの夕暮れ』の中のある一節が、私が抱え続けているモヤモヤとした気持ちは何なのか教えてくれた。

一人でいてもあまり寂しくないのは、自分と話しているからなのだ。
(中略)
ぼーっとしている人は何も考えていないんじゃない、猛烈に自分と会話しているのだ。

『ナナメの夕暮れ』若林正恭


衝撃だった。

毎日あれやこれやと脳内会議。
答えは出ない。
これはなんだと思っていたけど、そうか私は自分と会話しているんだ。そしてそれは、どちらかと言うと、「俗に言う"普通"」ではないことだと知った。


長濱ねるさん、ふかわりょうさん、若林正恭さん。
3人のエッセイスト(私にとっては芸人やアイドルというよりそうなのだ)の綴る文章は、私と感覚が似ているのか言葉がすんなりと入ってくる。

自分の中でくっきりとした輪郭を持たずにふわふわと彷徨っていた感情を、文字として形にしてくれた3人のエッセイストに心から感謝をしたい。

それと同時に、私もそんな風に日々思っていることを残したいという衝動に駆られた。

上手い文章じゃなくてもいい。
でも、自分の心にある「断片」をなんとか90%くらいはそのままの形を残して文字にしたい。

アイドルグループが「自分たちの曲でファンの皆さんに希望を与えられたら嬉しいです!」と言うのと、似ていると思った。

実際はそんな大層なことは言えないけれど、
そんな風に誰かの心に温もりを届けられたら嬉しいし、私の文章が好きと言ってくれたり共感してくれる人が一人でもいたら、それだけで満足だ。

なんやかんやで、
Instagramではなくてnoteに辿り着くのは、
やはり言葉の持つ力を信じたいし、
綺麗に時間をかけて推敲された文ではなくて
人間味のある未完成の文をそのまま出したいと思ったからだった。

都内で食べる高級フレンチではなくて、
実家で食べるお鍋を、
と書いたらわかりやすいだろうか。


社会の中では器用にその場に適した仮面を付け替え、会う人によって心の壁の厚みを調整しつつも、一番奥の扉にはそっと南京錠をかける。

器用なような不器用なような。

そんな処世術を使いこなすことに慣れてしまった私は、どこかで自分の未完成さや人間味をさらけ出してバランスをとろうとしている。

noteは、社会という天秤で上手くバランスを取るために始めたようなものだった。

そして同じくnoteという
こじんまりとした小さな村にいる素敵な住人たちと、
お互いの繊細な感性を認め合いながら、
温かい気持ちをお裾分けし合うような

そんなご近所づきあいをしていきたいと密かに思っているのだ。

そんな思いを経て、
今日もひっそりとnoteの住人になる。

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