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高校を留年した話とその後の話

こんばんは、みみおわです。

今回はわたしが高校の時にやむを得ずメンタル系の病気で留年した話をします。

長いです。

そして最後の方は自分語り(?)です。念のため先にお伝えしておきます!

*****

パニック障害の症状の記述があります。

一応見出しで分けますが、苦手な方は読まないことをお勧めします。

*****

充実した日々の幕開け


楽しい楽しい高校生活が幕を開け、
やりたいことをやりたいだけやっていた日々。

週6日の部活に週1日の習い事、そして勉強。

本当に充実した毎日で、
友人にも恵まれ、これ以上願ってもないくらい素敵な日々だった。


…だった。

自分のキャパはこの生活に耐え得るほど広くなく、やがて疲労の色を隠せなくなる。

周りに対してイライラすることが増えた。
そんな自分も嫌だった。

なんでこんなにイライラしているのか自分でもよく分からなかった。

その間にも積もる心の疲労。


突然襲い掛かる謎の症状(※症状記述あり)


夏休みが始まって序盤のある日、部活帰りの電車だった。
突然気持ちが悪くなった。
わたしはいつも通り“快速”電車に乗ってしまっていた。

「(すぐには次の駅に着かない…)」

冷や汗が止まらなかった。

不幸中の幸いながら、ひどい気持ち悪さのみで、
次の駅に着くことができ、電車から転がるように下車した。

這うようにホームのベンチに向かい、しゃがんだまま、ベンチにもたれ掛かって親に電話をした記憶がある。

「気持ちが悪くて動けない、今○○駅にいるから迎えに来てもらえないかな」

そんな内容。

気持ち悪さは変わらずだったが、
車に乗りに行くのになんとか歩いて
駅を後にした。

どう見ても異常事態である。


なのに私は馬鹿で、
翌日も部活に行った。
その時は電車に乗っても、
「昨日のあれ、なんだったんだろう。」
くらいだった。

ひどい身体のだるさが続いていた。

その翌日は、部活があったが寝坊をしてしまった。
部活の顧問には呆れられ、
たまたま遠征の日だったので来なくて良いとまで言われてしまった。


何やってんだろう。。。

と思った。


その後も体調の悪さは良くなることはなく、
騙し騙し生活した。

それでも、わたしの身体どうしちゃったんだろう?と身体の問題と思ったりしていた。


症状再び(※症状記述あり)


夏休みが明け、
ついにまた同じ症状に襲われることとなる。

その日は普通に朝から通学するために電車に乗った。
その日も“快速”に乗った。

扉が閉まった瞬間、冷や汗が止まらなくなった。

「(なんで…!!)」

気持ちも悪くなってきた。
耐えること10分強、次は乗り換え駅だったのでそのまま下車した。

次の線は各停しかないから、
なんとか乗ってみよう。

各駅停車でも電車に乗っている時間が経過するたび、気持ち悪さが出てきた。

途中下車しながら、
休み休み学校へ向かった。
(当然遅刻)


そして、お昼休み。
お弁当が食べられない。
食べたらまた、気持ち悪くなってしまうかもしれない。

怖い。。。


症状が現れるようになってからしばらく、普通に調理されたものが食べられなくなった。

唯一食べられたのが、
“カロリーメイト”

生ものがまず無理になってしまったので、やむを得ずこればかり口にした。


朝は電車での心配があるので、
朝食は取らない。

お昼に食べられたらカロリーメイトを食べる。
(それすら無理な日もあった。)

夜もカロリーメイトを食べられる分(だいたい半箱から1箱)だけ食べた。
水分もまた、気持ち悪くなりそうでほとんど取れなかった。

毎日カロリーメイト三昧。
幸い味にレパートリーがあったので、
種類を変えながらその日の気分で食べていた。

「先生、わたし、留年するつもりはないです」


わたしの頭の中は普段通りの生活をどうしても送りたい、ということでいっぱいだった。

どうみても周りから見れば異常なのに、必死で部活に行った。
(どんな目で見られていただろう、そんなことを気にする余裕もなかったけれど。)

その間も電車に乗ると気持ち悪くなることは続いていた。

快速電車に乗ることをやめ、各駅停車になるようになった。
そして各駅停車のみの線まで頑張って行っても、次の乗り換え駅まで残り2駅、というところでやむなく下車して、
次の乗り換え駅まで歩いたこともあった。

もう必死過ぎて何も見えていなかったんだと思う。
夏休み前のようなキラキラした毎日を取り戻したいと、もがいた。


しかし、現実は厳しかった。

担任の先生に面談したいと呼ばれていくと、
「出席日数がこのままだと(進級するのに)足りなくなります。」
と言われた。

たしかに、身体がしんどくて休む日が増えてきていた。

その時、言った言葉が、見出しの言葉である。

「留年する気は、ありません」


わたしその後も、必死に出席日数を稼ぎに行った。

冬休みを挟んだ。

この調子でいけば、ぎりぎり持ち堪えられるかも。という状況だった。


しかし現実は甘くなかった。

冬休みが明け、
しばらく電車に乗らなかったことから
電車への恐怖感が増してしまい、
全く通えなくなってしまったのだ。

「怖い、電車が怖い。。。」

そう言って家で泣くしかなかった。


1月には出席日数が足らず、
進級できないことが決まってしまった。

その後、親と共に担任の先生と面談した。

先生「通信制の高校に移れば、留年することなく3年間で高校を卒業できます。」


わたしは、この高校が大好きだった。

決意は固かった。


わたし「先生、わたし、留年します。」

先生は驚いていた。

本当にいいの?と聞かれたような気がするけれど、
わたしはこの高校を離れる気はさらさらなかった。

そして、再留年はできない、と釘を刺された。


それでも、わたしは自分で選んだこの高校に通い続けたかった。
卒業のことは考えていなかったかもしれないけれど、
チャンスがあるなら、もう一年でも多く通うと決めた。

3学期はほとんど休んだ。
何かの行事だけ、顔を出しに行った。

そして、また春が来た。


二回目の一年生(高校2年目)


新しい学年になった。
担任の先生は、前年度に教科担任だった先生になった。

その後3年間、お世話になることになる。

体調は完全に良くなったわけではないが、3学期を休んだことで回復してきていた。

電車の方は怖いと思う日もあるが、
頓服薬を持ち歩いていることが
安心材料だった。

カロリーメイトしか食べられなかったのが、家でなら普通の食事が取れる日も増えた。

保健室は最大限活用させてもらった。
電車関係なく気持ち悪くなった時の駆け込み寺だった。

自律神経が特に弱り、朝一番の1限が辛かった。


毎日全力で授業に通った。
そして、休んでしまった時は欠時を数えた。

欠時とは教科ごとの休みの回数のことである。

一教科でも欠時が規定値を超えると、
進級不可→退学なのである。

一応学期ごとの規定もあったが、
結局は年単位なので
表にして担任の先生と逐次確認した。


2年目はわりと体調も安定して進級することができた。
初めての高校進級がこんなに嬉しいとは、と思った記憶がある。


二年生(高校3年目)


二年生の時は秋口に体調が優れず、
うつ状態になっていた。
(思い返してみると、それまでにもそのような症状はあったがパニック障害の方が目立ち、見逃していた。)

3学期次第、ということでまたしても正念場を迎える。

しかし、ここで終わりたくなかった。

1、2月に怒涛の追い上げをし、
3月にはぎりぎりではあったが進級を決めることができた。


三年生(高校4年目)


三年生は自由選択教科が多かったので、朝の登校を遅らせる日を作ってみた。

「なんて楽なんだ、、!」
が正直な感想。

それでも欠時の不安はついて回った。
1限からの授業もないわけではないからだ。

しかし、体調も安定する日の方が大半になり、
2学期時点で卒業に王手をかけていた。

担任の先生も、やっとここまで来た、と少しほっとした様子だった。


3年生は卒業課題として、
センター試験を受けることになっていた。

しかし、わたしには負担が大きかったので、相談の上で卒業課題という形を取らせてもらった。


書道の作品製作にした。

感謝の思いを込めて、そして、高校の思い出を込めて、
漢字を六文字選んで、作品に仕上げた。


審査は書道の先生だった。


良いでしょう、とのことで卒業課題はクリア。


あとは欠時。

2月の終わり頃だっただろうか。
担任の先生と面談をした。

欠時を一緒に数えた。

「どの教科も(規定値)超えてませんね。
これなら卒業できますよ。」


夢みたいだった。
本当に本当に飛び上がるくらい嬉しかった。
でも夢のような気がして、
家に帰ってからも親に
「夢じゃないよね??」
と何度も聞いた。


そして3月、卒業式で卒業証書を手にすることができた。
本当に幸せだった。


卒業して思うこと


4年間、同じ高校に通い、
欠時というものに追われながらも
卒業をすることができた、
そのことを本当に幸せに感じた。

高校を当たり前のように卒業していく人が圧倒的に多数な中で、
わたしには当たり前な側ではなかったけれど、
本当に沢山の方に支えられながら
卒業をすることができた。

3年間お世話になった担任の先生。
同じクラスで、授業を休むとノートを見せてくれた友達。
初年度の担任の先生、
各教科の先生、
本当にお世話になりました。
沢山のありがとう、を込めて。
(ずっと思っていたし、これまでも伝えたことだけれど、改めて。)


初年度の一年生の夏休み前のような、
充実したやりたいことをやりたいだけやる、という高校生活に
2年目以降戻ることはなかったし、

大変なことだらけだったけれど、
高校生活全体が、本当にキラキラ輝いた思い出です。


高校を留年することについてと、現在


わたしは在学していた高校で、

進級せず留年、という判断をしたけれど、

それ以外の判断も尊重されるべきだと思っています。

わたしは入った高校への思い入れが強かったから、留年という形で残った。それだけのことです。

またこれが、二年生で留年、という話だと全く違った形になっていたと思います。

(一年生で留年して、全員が新しい関係を構築するタイミングだったので、クラスにも馴染みやすかったと思います。)

*****

ちなみに

高校を留年した時は

いろんなことに関して、今後人と同じように人生を歩むことは難しいのではないか、

(レールを外れてしまったという意味で)


と不安をたくさん抱えました。


しかし、短期ですが留学もして、

大学も卒業することができ、

現在は病気に理解あるパートナーと結婚しています。


人生、一回転んだくらいでは

不幸になったりしない。

そしてその後を決めるのは自分次第。


ということに気付くことができました。

大学の卒業も、順風満帆では無かったのですが、

今幸せだと自信を持って言えます。


*****

メンタル面は

現在、パニック障害の症状が出ることはほとんどなくなりましたが、
調子の悪い日はうつの症状に苦しむ日があります。


メンタル系の病気は、完治が難しい。

違った病気として症状が出たりもする。


ずっと付き合っていくつもりで、

むしろ私の個性として、

これからも過ごして行きます。


人よりメンタル面ではハンデがあるかもしれない。

大変なことも、あります。


それでも今幸せと思えることに

感謝したいと思います。


みみおわ




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