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昨日の神様と僕と少々の決意

僕は信心深いほうではない。どちらかといえば適当なほうだ。イスラームでも、キリストでも、ユダヤでも、なんでもないし、仏教徒なのかといえばそうでもない。神様がいたほうが、嬉しい。そして、天国があった方が少しだけだけど、希望がある。それぐらいの信心深さだ。

でも、神を信じたいと思ったこともある。

運転免許を取る為ということで、教習所に通い、高い授業料を払った。いよいよ本試験というときに、実技で2回落ちた。なんというか、馬鹿である。一つのことをしていると他ができないという性格は、運転には不向きなのだろう。

そんなもので、本試験3回目のときだった。朝早めに起きて、7時ぐらいから氏神様の社まで登り、1000円賽銭箱に投入した。本当に神頼みだったことは覚えている。記憶に新しい。すると、試験に通った。

「嗚呼、神よ」といった記憶はないが、笑顔で笑った記憶はある。

だが、数日間だけしか、神は存在しなかった。


神を恨んだこともある。
小学校3年生のときだ。僕はイジメられていた。石を投げつけられ、火ばさみを顔に押し付けられ火傷もした。
父と母には言えず、嘘をつき。幸せな小学生を演じた。まるでピエロだった。

「なんでこんなところに生まれたんだろう」
それを言ってしまったら、親に顔が立たない様な気がして、言えなかった。
枕の中の慟哭は何時も、半径0メートルの擦れた音であった。

そのときは、神を恨んだ。実物があるものより、空想の畏怖する存在のほうが恨みやすかった。

だから、なのだろうか。
神は死んだと言われても、納得してしまう。
ああ、神は死んだ。というより、居なくなったのだろうと。


そして現在。
母がお大師さん(弘法大師 空海)の地域の役員になってしまった。仕事で忙しいのにも拘らず、老後を満喫中のおばあちゃんに言われて、引き受けたらしい。三カ月だけだというが、その三カ月は忙しくなるだろうなと思うと身悶える。


そんな中、掃除に行くというから、昨日僕も付いて行った。
階段を一段ずつ掃き、殿の周りもしっかり隅々まで掃く。桜は散り、春の陽気な陽光が新緑の木々と交差する。その影は丁度いい具合に北に伸びた。

さあ、降りようと皆で降りた。

そのとき、大きな桜の木が見えた。その横に大きな石柱の様なものが建っている。

それは忠霊塔だった。第二次世界大戦の戦没者への追悼を願った塔だった。

「弘法の殿から少し降りるとあったな」などと考えていると、昭和30年建立の文字が微かに見えた。苔が生え、慰霊碑として建てられた、その石板の文字は汚れでもう見えない。

散っていった英雄の上で咲く桜も、また再び散るのかと思うと、なんだか心が揺らめいた。

平和で、ゆったりとしたこの春がいつまでも続いてほしい。そう密に願っていると父がこういった。

「忠霊塔汚れとるやろ? 元々は戦没者の遺族がここ掃除してたんやけど、今年からは無理ってさ」

「なんで?」そう僕が返事をすると、父は悲しそうな顔でこういった。

「仕方ないんや、けど。過疎化したこの地域で暮らす人も少ないし、街から車で15分だからな。遺族も、もう、居ないんだよ。街に出ていったから、できないんだってさ。仕方ないよ」

あの人類の黒歴史を何時までも覚えておくなんてことができるのならば、戦争はこの世から亡くならないんだろう。

血はいつでも流れ、いつのまにか守る者さえ獣になってしまう。腹が空いたという子供も、その辺に跋扈する。

「おい、帰るぞ」強い語気で父は言った。

「うん、そうだね」

僕はこう返すのみだった。


そのとき、再び神が現れた。
あの惨状を忘れてはならないのだと。

後世に伝え、建設的でプラトニックな行為で平和を勝ち取る事が出来ねば、この世は再び修羅になると。

だって、英霊になった人も、愛しき日々があったのだろう。僕たちに在るように。

僕が神に願った合格も、神を恨んだあの涙も、全部、その行為は等しく彼らは体験したはずだ。

その涙と笑みを僕は馬鹿にできない。

あの時の僕は神を殺した。

でも、再び神は出てきたのだ。

昨日の明るい陽光が差す、あの心の中に。

僕はこの日を忘れるだろう。
だが、あの神は僕の中の僕であると思える。
ただひたすらに、そんな気がする。


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