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絶対的な非-意味から始める人生

池田晶子さんの「知ることより考えること」という著作に、「人生は暇つぶし」というタイトルのエッセイがある。

その中に以下の一文がある。

こういう、なんというか、絶対的な非-意味みたいなものに目覚めてしまうと、確かに困ると言えば、困るような感じはする。

「人生は暇つぶし」というワードより、この「絶対的な非-意味みたいなものに目覚める」というワードが今の私の感覚にマッチしていると感じた。

客観的に見て、私の人生(そして私以外の人生)に意味があることはほぼ確実にない。
この「意味」という言葉をどう考えるか次第なのかもしれない。私はこの意味を人類の存続と考えた。
ほぼ確実に人類はいずれ滅びて、地球は赤色巨星と化した太陽に飲み込まれる。この結末の前において、これまでの生きてきた人の人生に意味はない。

いずれ消えてなくなる人類に金も贅沢も、言葉も学問も同じく意味はない。

今している日々の生活は無に帰す、すべてのものに意味はない。

これに気づいたときの感覚が、まさに「絶対的な非-意味みたいなものに目覚める」というワードだった。

ただ、目覚めちゃったあと、数日立ってさらに気付いたのは、この非-意味の中でどう生きるかの自由度の高さだった。
どのように生きても意味がないのだとすると、逆にどう生きるも自由ということだ。
一般的な価値基準、例えばお金や社会的ステータスに一喜一憂して生きるのもよい、ひたすら自分の世界にのめり込んで他者との関わりを断つのもよい。もしくは、一周回って今している生活をそのまましても何も問題ない。

自由に生きれるのなら、自分なりの意味を見つけた何かをやる人生でありたいと思ったりするが、一度意味がない認定したものに、意味を持たせるのは難しい。この自分なりの意味というものは、実際には意味がない。

これはこだわりみたいなもの、客観的な理由付けは必要ない。その点を踏まえると、自己目的化する何かをやり続けることと言える。

成功も失敗も関係なく、ただやり続けられること。

これは理想的な日常そのもの。この日々の日常を自分がやりたいようにやり続けられること。
続けていることに満足できること。

それに付随して客観的な結果がついてくるかもしれないが、その有無は関係ない。

これを永遠にやり続けることはできないとわかっていながらも、続けられること。自分が自分であるために必要なことを続けられること。


一旦、このような人生を目指すのがよいのかと考えるに至っている。


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