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【三国志の話】【倭人伝】後編の補足および自作資料の有償配布

後編のおさらい

 前回の記事「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼は九州にいた!?」は、筆者の記事の中では長文でした。

 「長すぎるぞ」と感じた方には、申し訳ありませんでした。
 しかし、筆者としては短すぎた。

 4千字を目標に編集したため、書ききれなかった部分が多くあります。
 そのため今回の記事で補足をすることにしました。

後編の補足

魏の使者は女王国に行ったのか

 「魏の使者(梯儁や張政ら)は、伊都国までしか行っていない」という説があります。

 倭人伝の伊都国の説明に「帯方郡の使者がつねにとどまるところ」と書いてあることや、「伊都国だけ"至る"ではなく"到る"だから、使者の目的地は伊都国だった」という説です。

 そこから、「伊都国から先の方位・距離は伊都国を基準とすべし」という説や、「伊都国から先の方位・距離はあてにならない」とする説などに派生します。

 では、魏の使者は実際に伊都国から先に行ったのかどうか。
 筆者は、魏の使者の目的には倭国の現地調査が含まれていただろうと考えて、行ったと考えます。

 大和氏の説では、実はどちらでも構いません。
 倭人伝の距離と方角が、現代の科学で測定した結果と一致するかどうかは重要ではないからです。

 倭人伝からは、少なくとも当時の中国人が「距離を里の単位で記述して、方角も併記する」という文化であったことが分かる。
 陸路だけではなく海路でも、「句邪韓国から対海国まで千余里」「対海国から一大国まで一千余里」「一大国から末盧国まで千余里」と、里を単位にして書いています。
 これが、

 倭人伝には国ごとの戸数と、少なくとも不弥ふみ国までの位置(方角と里数)が具体的に書いてある(正確かどうかは別の話

と書いた意図です。

 それに対して不弥国から先は、「不弥国から投馬国は水行二十日」「投馬国から邪馬台国は水行十日陸行一月」と、日数で書いてあります。
 これも、正確かどうかは関係なくて、倭人の文化だと想定されることが重要です。

 倭人伝の「不弥国まで」と「不弥国から先」では情報ソースが違うことのみが重要ということです。
 その上で、その情報が正確である方が良いことは確かなので、女王国については九州説論者に、邪馬台国は畿内説論者に引き続き研究して頂きたいと思います。

台与と晋の関係

 後編のまとめで、筆者はこのように書きました。

 残念なのは、「晋と台与の関係」が「魏と卑弥呼の関係」ほど親密ではなかったことです。(その理由は、いろいろと考えられます。)

 前編・後編で数多く引用したこの書籍の共著者、黒岩氏と大和氏は別々の考えを持っていたので、その二説を紹介します。

  • 黒岩氏の説

 邪馬台国は九州にあったと考え、畿内に遷ったのは倭人伝よりあとの古墳時代だと想定しています。

 これは、九州が畿内より強大だったという意味ではありません。
 畿内は出雲・吉備の二大勢力の力で発展した新興勢力で、3世紀後半には前方後円墳に剣を副葬できるほどすでに強大だった。

 むしろ九州の方が、倭人伝に「矛・盾・木弓を用いる」と書かれているくらいに、遅れた地域だった。
 そこにあえて倭国の都を置いていたのは、魏との連携を図るための玄関口だったからです。
 卑弥呼の倭国は弱小であり、魏の支援がなければ句邪国に負けそうだった。

 台与の代には、何度か魏に朝貢したのち、晋の建国直後の泰始二(266)年にはさっそく祝賀の使節を送ったものの、晋の態度は冷たかったようです。
 「晋書」倭人伝の記述の少なさを見れば分かる。

 魏の時代には呉との対抗から倭国が重要視されたのだが、晋の時代にはもう倭国を重視する必要がなかったからだと考えられます。

 そして、晋の支援が期待できないと判断したからか、句邪国との戦いが不利に展開したからか、あるいはその両方の理由で、出雲と吉備が防波堤となってくれる新天地つまり畿内に遷ったという説です。

  • 大和氏の説

 後編の本文に書いたように、台与は九州から畿内に遷都して邪馬台国を名乗ったと想定します。
 大和氏は「卑弥呼は句邪国との戦いで戦死した」という説を採用しますから、台与は戦いを避けて東方へ逃れたのでしょう。

 黒岩氏の説のところでも書いたように、台与はそのあと266年に晋に使者を送りました。
 大和氏の説では、この時点ではまだ呉は滅んでいないから、晋は倭国には期待したはずと言います。
 しかし、倭人伝にも書いてあるように、邪馬台国は遠い。九州に女王がいたときよりも、さらに陸行一月と水行一月かかる。
 単純に物理的な距離の遠さが、晋との外交関係に影響したというのが、大和氏の説です。

畿内説との関連

 九州説の論者は、畿内説について「纏向遺跡は大きな祭祀場であって、そこには倭人伝が描くような城塞や集落の要素が見えない。しかも、箸墓古墳は三世紀後半の古墳なので卑弥呼の墓ではない。」と批判します。

 それは、受け入れることができます。纏向は女王国より新しい邪馬台国のことであって、祭祀機能のみを持っており、七万戸の大部分はまだ未発掘で、箸墓古墳は台与の墓である、と考えられるので。

九州説との関連

 畿内説の論者は、九州説について「九州にある遺跡はどれも小規模で、吉野ヶ里遺跡ですら七万戸の都市には見えない。しかも、九州北部から船を使ったら九州には収まらない。」と批判します。

 それも、受け入れることができます。九州にあったのは小国の女王国であって、狗奴国に苦戦して魏に助けを求めて、そして敗れたのちに船を使って新天地を求めた、と考えられるので。

自作資料の有償配布

 以下内容の11ページのPDF資料を作成しました。有料部分を購入していただくことで、ダウンロードすることができます。

  • 地図と年表 1ページ

  • 「魏志倭人伝」全文(女王国と邪馬台国に関する記述を色分けしたもの) 8ページ

  • 上記の全文のなかから「女王国と邪馬台国に関する記述」のみを抜粋したもの 1ページ()

  • 参考文献 1ページ

女王国と邪馬台国に関する記述のサンプル画像。「女王国」(赤字)と「邪馬台国」(青字)

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