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【三国志の話】【倭人伝 後編】邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼は九州にいた!?

前編のおさらい

 前回の記事「曹操は倭人を知っていたか?」では、こちらの書籍の黒岩氏の文章から多くを引用しました。

 もう一人の著者である大和おおわ岩雄氏の文章も興味深いので、今回それを紹介します。

大和氏の説

 本当は「大和おおわ説」と呼びたいところですが、「大和やまと説」と混同しそうなので、「大和氏の説」で通します(苦笑)

 共著者の黒岩氏と大和氏はともに邪馬台国東遷説の論者ですが、東遷の時期や出雲吉備との関係などに微妙な違いがある。
 大和氏の説は、東遷の時期をピンポイントに「卑弥呼が死んだ直後の西暦250年代」と想定することが特徴です。

 ただそれだけなのですが、それが非常に大きな争点になる。
 『魏志倭人伝(以下、倭人伝)』は、卑弥呼ひみこの後継者台与とよの時代も含むので、つまり「邪馬台国の東遷が倭人伝から読み取れる」ことになるからです。

 要約すると、「倭国の女王は卑弥呼台与の二人で、それぞれ都が別であった。卑弥呼の女王国は九州にあって、台与の邪馬台国は投馬国より水行十日陸行一月の場所にあった。」ということになる。

 それが冒頭の著書の「邪馬台国は二つあった」という章であり、のちに別の著書では「女王の都は二カ所あった」に改められたようです。

 この説の良いところは、九州説畿内説も否定せず、どちらも肯定できるところです。
 筆者はそのことに気づいたので、本記事のタイトルとしました。
 正確には「投馬国より水行十日陸行一月の場所」は畿内とは限らないのですが、近年の考古学上の成果を考えて、大和氏と同様に畿内を想定しました。

 では、倭人伝をどう読めば、「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼は九州にいた」と読み取れるのでしょうか。

邪馬台国はどこですか?

 倭人伝には、三世紀中ごろの倭国の情勢が詳しく書かれている。
 卑弥呼は「西暦238または239年」、「240年(の魏の使節への答礼)」、「243年」、「247年」の四回、魏に使者を送っています。

 最後の247年では、魏は卑弥呼の支援要請に応えて、張政ちょうせいに詔書と黄幢を持たせて倭国に派遣した。
 張政は、卑弥呼が死んでから次の女王台与が共立されて安定したことを見届けて、時期は特定できませんが、おそらく250年前後に帰国しました。

 つまり張政は倭国に数年いたので、卑弥呼時代のことを詳しく朝廷に報告できたはずです。
 実際、倭人伝には国ごとの戸数と、少なくとも不弥ふみまでの位置(方角と里数)が具体的に書いてある。(正確かどうかは別として、具体的。)

 ただし、陳寿がそれらの資料を見て倭人伝にまとめるまでには、30年前後の時間差がありました。
 『三国志』は、280年に呉が滅びてから数年後(284年ごろ)に書かれたと言われています。

 その間、魏で司馬昭が相国となった258年以降に倭国が複数回朝貢したうえ、晋の建国直後の泰始二(266)年には台与が祝賀の使節を送っている。

 これらは『晋書』の記事です。晋の役人であった陳寿は、リアルタイムにその情報ソースを持っており、倭人伝にも反映することが可能でした。

 大和氏の想定では、このときまでに台与は新天地に移り住んでいた。ここに、新旧の情報が混在する余地があります。

書き換えた結果はどうなったのか?

 台与の遣使のいずれかで、倭国の使者は女王の都がヤマトだと語り、「出発してから投馬国までは陸行一月水行十日、投馬国から九州まではさらに水行二十日かかった」と報告したのでしょう。

 陳寿は晋の資料でそれを見て、倭人のルートとは逆に行けば女王の都に着くと考えて、倭人伝を書き換えたという流れが考えられます。
 ただし、陳寿は「卑弥呼の都と台与の都は違う」ことに気づかなかった。

 そのため、それまでの草稿では女王の都の名前が分からず、ただ女王国と書いていたが、「女王の都は邪馬台国」という情報を追加した。

 距離についても、張政は不弥国から女王国までを里数で報告していたはずだが、倭人からの情報の方を尊重して(あるいは、投馬国という経由地を含む方がより具体的だと考えて)日数で書き換えた。

 ただし倭人からの情報には方角は含まれていないから、「不弥国の南」という方角はそのまま残した(のか、多くの研究者が考えるように、陳寿は倭国を「九州から南に長く続く島国だ」と思っていた)。

 その結果、「不弥国の南、水行二十日で投馬国に着き、投馬国から水行十日陸行一月で女王の都、邪馬台国に着く。」という説明になったと考えられます。

書き換えの証拠はあるのか?

 倭人伝では卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、あくまで倭国の女王
 邪馬台国は「女王の都とする所」ですが、女王は卑弥呼とは限らず、台与もいる。
 卑弥呼の都は別途、女王国と書いています。

 結果的に倭人伝には女王国五回登場しますが、邪馬台国一回だけです。
(本当か?と思う方は、自身で確認してみるか、後日公開する予定の補足記事でご確認下さい。)
 つまり陳寿は、大部分を元資料のまま女王国と書き、邪馬台国の情報だけ、最後に書き加えた。

疑問点

 筆者はこの説に全面的に同意しているわけではありません。現状でも、下記のような疑問を持っています。

 なお、畿内説・九州説・東遷説がそもそも持つ問題点には触れません。
 あくまでも、大和氏の「西暦250年代の東遷」という仮説に限った話です。

陳寿はなぜ台与の朝貢について書いていないのか

 少なくとも司馬昭時代の朝貢は魏の時代のものであり、司馬氏の威光を示すものでもあるのに、なぜか『三国志』には書いていない。

 もしかしたら、陳寿の手元には司馬昭時代の記録はなかったのかも?
 あれば陳寿は必ず書いたでしょうし、より多くの邪馬台国に関する情報が現代に伝わったでしょうから、とても残念です。

 逆に、渡邉義浩先生の「魏志倭人伝の謎を解く」によると、陳寿の情報ソースである『魏略』には奴国と不弥国の情報がないらしい。
 『魏略』が張政の報告によるものだとすると、陳寿はその二か国の情報をどこから得たのでしょうか。(魏略は梯儁ていしゅんか?)

七万余戸は多すぎると思わなかったのか

 倭の諸国が千戸から数千戸で、現在の福岡市にあたる奴国が二万戸であることから考えると、その近隣にあったと想定する女王国もせいぜい二万戸くらいだったはず。

 それを陳寿は「邪馬台国は七万余戸」と書き換えたことになるが、その差を疑問に思わなかったのだろうか。

 まあ、不弥国から女王国までの距離を日数で、それもとんでもなく遠方に書き換えるくらいだから、思わなかったのだろうな・・・

なぜ大和氏の説が忘れられているのか

 筆者が冒頭の書籍の存在を知って読んだのは最近(2024年5月)ですが、この書籍の発行は1997年です。

 そんな30年近く昔からスルーされてきた仮説を、今さら掘り起こす価値はあるのだろうか。
 つまり、何か決定的な論理の破綻があって消え去った(そして、それを筆者が知らなかった)だけなのでしょうか?

まとめ

 大和氏の説の出発点は、「倭人伝に里数と日数の表記が混在しているのは、情報ソースが違うのでは」ということでしょう。
 倭人伝のこの部分が、日本列島の地理をよく知る現代日本人にとっては最も不可解であり、論争を生む根源だから。

 そこからより具体的に、「女王国の表記は五か所あるが、邪馬台国の表記は一か所しかない」ことに大和氏は着目します。
 里数表記は「魏の役人が報告した卑弥呼時代の情報」であり、日数表記は「晋の役人が倭国の使者から聞き取った台与時代の情報」だった、と想定しました。

 その結果、畿内説も九州説も、どちらも否定する必要はないという仮説が生まれた。
 それを発見した筆者は今回、「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼は九州にいた」という記事を書いた、という流れです。

 大和氏の仮説が成り立つには「西暦250年代の東遷が可能かどうか」がカギになりますが、筆者が考察したところそれは可能です。
 陳寿は晋の記録を見て、倭人伝に新しい都の情報を追加することができたはずだからです。

 残念なのは、「晋と台与の関係」が「魏と卑弥呼の関係」ほど親密ではなかったことです。
 (その理由は、いろいろと考えられます。)

 台与から晋への唯一の遣使(西暦266年)を最後に、倭の五王が出てくる『宋書』まで約150年、中国の史書からは倭国の記録が消えます。
 『晋書』に邪馬台国の情報が少ないということは、すなわち、陳寿の『三国志』にも詳しいことは書かれなかったということでもありました。

おわりに

 この記事では、邪馬台国の場所や卑弥呼の墓を特定したいわけではありません。
 大和氏の仮説に従えば倭人伝をより違和感なく読むことができると主張しているだけです。

 その前提にあるのは、「三国志の著者陳寿は誠実な歴史家であり、(中華思想の前提はありつつも)周辺国の情報も可能な限り正確に記録しようとしたはずだ」という敬意です。

 ですから、「邪馬台国の場所を特定するために、倭人伝の不可解な部分は無視する」とか、「卑弥呼・台与を皇族に比定するために、倭人伝を記紀の内容に寄せて読む」という論者とは、スタートもゴールもずれています。

 また、「倭人伝の不可解な部分を全て解明すべき」という考えもありません。
 例えば「当時の一里は現代の何メートルか」とか、「投馬国からは水行十日+陸行一月なのか水行十日 or 陸行一月なのか」、「倭人伝の方位は何度ずれているか」などの考察はしません。

 邪馬台国「論争」と言われている通り、多く方が持論をお持ちかと思います。
 本記事はこのような意図であると、ご理解を頂きたいと思います。


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貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。