【読書感想文】海辺のカフカ/村上春樹
好きな作家を聞かれて、私はまず彼の名前を口にする。それはおそらく17歳の時に「海辺のカフカ」と出会ったところから始まっている。
私の入り口は「海辺のカフカ」だった。だからこそ、私にとってはずっと大切な物語だ。今回手に取ったのに特に理由はない。なんとなく読み直したくなったから。彼の小説の多くを何度か読み直している。「海辺のカフカ」も3度目だ。
前回は大学生の時であり、それはもう10年以上も前のこと。当時、田村カフカくんと比較的近い年齢だったのに対し、今は酷く離れている。おそらく‘大人’になってから読むのは初めてだ。
今回3月の最初から最後までほぼひと月を掛けて、この物語を読んだ。その間、自分にとっても不思議なことが起こったので、今回はそんなことを中心に書いていきたい。物語と今の自分。何かが交錯しているような気もするが、それは単なる思い込みかもしれない。
そこに意味があるかどうか、そんなものはわからないけれど、全ては可能性の話なのだろう。
○序章
別にそれが理由というわけではない。ただなんとなく「そろそろ読みたいなぁ」と思ったのが年始でKindleで上下巻の合算バージョンを購入していた。
そして、今年の3月は個人的に何かと区切りの3月であり(それはとても個人的な事情だ)、そんな節目の終わりにこの物語を読むタイミングが来たような気がしたのだ。
そんな経緯で3月から読み始めた。まだまだ読み初めの段階(3月8日だったと思うが)で、偶然に遭遇する。半年前くらいにキャリア入社で部内に入社した人と二人で飲みに行った際、村上春樹の話になった。
というのも、彼の入社後のオリエンテーションの一部を私が担当していたのだが、そこで共通の共通の趣味の話になり、お互い村上春樹の作品が好きであることがわかった。ここまでは不思議な話でもない。
他にも彼とは共通点が多く、また飲みに行きましょう、と言ったものの、半年近くが経過してしまっていたが、何かの契機で2人で飲みにいくことになった。
その際、最近何を読んでいるかの話になったのだが、私はもちろん「海辺のカフカ」と答える。すると彼も「海辺のカフカ」を直近で読んだというのだ。それは私と飲みに行くことが決まった際に、村上春樹を読み直そうと思い手に取った本が偶然この作品だったということだ。
これが一つ目の偶然。ちなみに彼とは、村上春樹をきっかけとした話で大いに盛り上がり、たいへん知的な飲み会となったのであった(つまりは、自分たちで知的だと言い合えるくらいの薄っぺらいものなのだけれど)。
○血
続いては、その週末の出来事。日曜日の夜中21時くらいにランニングをしていたところ、盛大に転倒し、流血した。
つまづいて転んだわけだが、その時、外した手袋を握りしめており、手の甲で着地をすることになった結果、主に右手の甲をアスファルトにダイレクトで擦り付ける形になってしまい、広範囲からそこそこの血が流れた。
もちろん、その他、肩や足も激しく打ち付けたわけだが、そこは服が破れ、打ち身をした程度で済み、血が出たのは両手の甲だけだったのは不幸中の幸いだった。
さて、この話と物語を結びつけたのは数日後なわけだが、この転倒した日の前日と当日、「海辺のカフカ」内で、ナカタさんの回想の血のシーンとカフカ少年が血だらけになって神社の深い茂みの中で意識を取り戻すシーンを読んでいたのだ。
前日が9章、当日が10章。当日血だらけの右手の甲を応急処置した後、湯船に浸かりながら読んでいたシーンがまさにここだった。
ちなみに私が今回のように血を流すのは記憶の限りは10年以上はない。つまり、生活をしていて、軽く包丁で指を切る程度はあるにせよ、ほぼ血を流すことはないのだ。そんな自分がちょうど「海辺のカフカ」を読んでいる時、しかもちょうど血の描写が色濃く描かれているシーンの途中で私も血を流した。
単なる頻度錯誤と言われればそうなのだろう。ただ、そこに何かの意味を見出すことにこそ、創造力の楽しさがあり、それが物語の素晴らしさであり、私が見ている世界と社会を彩り豊かなものにしていくような気がする。
○森
3月4週目の週末に和歌山へ家族旅行に行く予定を立てていた。娘が幼稚園を卒園し、4月から小学生になる。また息子も同じく幼稚園に入園する。ということで、いろんな祝い事を重ねて旅行に行く計画を立てていたのだ。
ただ、出発2日前くらいに息子が高熱でダウン。敢えなく計画はキャンセルとなり、GWにでもまた改めて行く計画を立てていた。
そんな折、数日前に妻から最終週の週末にグランピングに行かないか、と提案があり、年度末の週末にも関わらず数日前の予約でグランピングに行くことが決まり、昨日今日と奈良の吉野まで行ってきた。
そのグランピング場所がなかなかの山の中だった。山の中にぽっかり空いたそれほど大きくないグランピング会場。まだ比較的新しい施設らしく、施設自体はとても綺麗なところだったのにも関わらず、全部で10テントある中、稼働していたのは我々含めて3つのテントだけということもあり、比較的静かな状態だった。
静けさとともに、夜中になると真っ暗で本当に何も見えないくらいの暗さ。星空は綺麗だが、それを上回るくらいの暗さ。静謐さと深い闇、それらに囲まれながら昨日の深夜3回目の「海辺のカフカ」を読み終えた。
個人的に非常に暗い森の中にいた。カフカ少年が兵隊たちに出会ったところがすぐそこにありそうな闇だった。これもまた創造力。
偶然が重なり、最後を森の中で迎えることになったこともまた何かの物語性を感じざるを得なかった。あるいはそれがメタファーとして。
○その他
こういったただの出来事に何か意味を見出そうとする姿勢が好きだ。これはまさに自分の姿勢のことなので、ナルシスト発言なわけだが、昔からこういう読み方をする。
初めて読んだ時からこれまでの間、私はタフであることを心掛けてきたし、事あるごとにこの言葉を思い出してきた。それは予言のように。
さらに大学時代は、佐伯さんのような女性(恋をしてしまいたくなる50代の女性)が自身の近くにおり、彼女と自身を重ねながら読むということをしていた。すごく恥ずかしい話だが、そういった関係性が私とこの物語の間にはあるのだ。
当時クラシックなんて全く興味がなかったが、作中に出てきた「大公トリオ」がどうしても聴きたくなり、当時近くのTSUTAYAで購入し、何度も聞いていた。聴いてタイトルがわかるようなクラシックなんてほとんどなかった学生時代、就職活動の一環で、説明会会場だったホテルに行った際、開始前の待ち時間にこの「大公トリオ」が流れていて、そのベンチャー企業への入社を決めた。
そういう意味でもこの小説はやはり自分にとっては多くの意味があるのだろう。単に自分がそう仕向けているだけではあるのだが、個人的には双方向で作用し合っているものだと捉えている。
ここまで不思議な相関を感じざるを得ない小説は他にない。だからこそ、これからも私に取ってこの小説はとても大切なものになる。
流した血の意味なんて今はわからない。ただ、きっと何かが関係している。それは後からわかること。今はただその関係性をこうして覚えておくこと。それだけでいい。
改めて読んだ感想は、すごく不思議な物語だった。何がどう繋がっているのか、繋がっていないのかなんて、正直わからない。ただただ考えれば考えるほどに複雑だ。
なぜかその複雑さが心地よく、複雑なものは複雑な状態で完結している。無理にそれを紐解いて理解しようとも思わない。そのままの状態が楽しいし、それだけでもここまで書いてきたようなことを自分は考えたわけだ。それでいいじゃないか。
次この物語を読むときはいつだろうか。はたまた次はもう来ない可能性だってあるのだ。その時にここに書いたようなことを少しは覚えているだろうか。あるいは、書いたことすら忘れてしまっているだろうか。
小説を読むという行為は実に不思議だ。僕にはまだちゃんとその意味がわかっていないような気がしている。それでも、ただただ自分の内側が物語を、特に活字で書かれた物語を欲しているときがある。その時に主体的に物語を摂取すると、僕は新しい世界の見方を手に入れることができたような気がする。それがどうなるのかはわからない。
偶然にも、昨日は僕の誕生日で、明日からは新しい年度が始まる。新しい世界の一部としてタフになり続けようと思う。
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