留学中に直面した労働観の違いと「働き方改革」

「誰、これ?自分で掃除して!」

留学中のある日、汚れたガス台の写真と共に上のメッセージを、寮生がグループチャットに送ってきました。

当時私たちが住んでいた大学の寮では、トイレ・シャワー・キッチンが共有でした。

写真に写っていたガス台は、いわゆるガスの台ではありません。IHヒーターの様な丸い鉄板が熱くなって、その上に鍋なりフライパンなりを置いて調理するタイプのものです。(ラジエントヒーターというのでしょうか?)しかも、古い型のようで、調理中は鉄板以外の場所もものすごく熱くなるので、うっかり触ると火傷をします。

写真では、どうもソースか醤油かを盛大にこぼし、そのまま放置したらしく、黒い液体が過熱されてこびりつき、ガス台の2/3程が真っ黒になっていました。

「だって彼女の仕事を取っちゃうじゃん」

メッセージを読んだ寮生(私を含めた6人)はわらわらとキッチンに集合。誰がやったか、誰が掃除をするか、の話し合いが始まります。

主な議論点はA対Bで、

A:共有スペースはみんなが使うから綺麗に使うべき

B:自分で掃除する必要はなく、週1で来てくれる掃除当番に任せればよい

でした。

Aの立場の4人はどちらかというと自炊をする頻度が高いメンバー。キッチンで料理をしながら、時にはビールを飲みながら、だらだら過ごすので、授業がない時間帯は割とキッチンで過ごしていました。(私もこちらの立場)

Bの立場の二人はあまり自炊をせず、たまに簡単な作業をする時だけキッチンを使っていました。この二人は、食品の管理もずぼらで、冷蔵庫にいれた食品を腐らせたり、カビをはやしてもそのまま放置することもしばしば。

どうもBの立場のうちの1人が犯人のようでしたが、誰も白状するわけもなく、もうこの際誰がやったかはどうでもよく、誰がこの後始末をするか、が議論の焦点になります。

Aの4人はキッチンで過ごす時間も長いし、キッチンを使う頻度も高いけど、自分たちはそれぞれ掃除をしている。汚した人が責任をもって綺麗にすべき、と主張。Bの2人はそれほどキッチンを使っていない自分が掃除する必要はない。嫌ならキッチンにいなければよいわけで、週に1回来る掃除担当を待てばよい、とのこと。議論は平行線でしたが、Bのうちの一人が言った言葉が私には衝撃でした。

「うちらが綺麗にしちゃったら、掃除当番の仕事を取っちゃうじゃん」

労働に対する考え方の違い

大学の寮では、週に1度、共有スペースの掃除が入りました。中年のおばさん、おじさんが来ることもありましたが、大学側は学生バイトでも募集をかけていたので、私よりも若い人が掃除に来てくれることもありました。彼らのアルバイト代は私たちの寮費から出ていたようです。つまり、上の発言は「自分が費用を支払った当然享受すべきサービスであり、権利である」という主張にも取れました。

当時は衝撃を受けましたが、その発言に対する違和感を説明できませんでした。今、その違和感を振り返ると、その理由の一つは「労働に対する考え方」の文化的違いであると思います。

西欧文化では「労働」は「出来ればしたくない」「神から与えられた罰」という考えが根底にあります。聖書の教えでは禁断の果実を食べたアダムとイヴはエデンの園を追放される際に「労働の苦しみ、出産の苦しみ」を言い渡されます。実際、英語の"labor"は「(つらい)労働、賃金労働」の他に「陣痛、分娩」も意味します。更に言えば、古代ギリシャでは労働を担うのは奴隷の仕事でした。

一方、日本では、古事記で様々な神様が労働をする様子が描かれているように、誰もがすること、の様に考えられています。士農工商の身分制度はありましたが、奴隷制度はありませんでした。実際、現在でも学校では清掃員の方はいらっしゃいますが、生徒が放課後掃除をすることは一般的ですし、整理整頓なども注意する先生も多いのではないかと思います。

当時の私は、自分が当然やっていたことは「労働」であり「対価のある労力」だから自分はやりたくない、という主張に衝撃を受けたのだと思います。

結局、キッチンはAの4人で散々文句を言いながら(笑)掃除をしました。

現在進行中の働き方改革

働き方改革の一つに残業時間の制限が含まれています。結論から言えば「働き方改革」には反対ではないけれど、「一律の残業時間規制」には疑問があります。その理由は、表面的な改革ではなく、労働観や各企業の状況に応じた策でなければ、根本の問題は解決しないと思うからです。

日本の労働に対する伝統的な考え方は、悪用されると「公私の境目が曖昧になる」危険性を含んでいると思います。「労働には何が含まれるか」と定義する必要性が軽視されるから、サービス残業の様な概念が生まれ、ブラック化する企業があるのではないでしょうか。

留学中の出来事では、Aの立場の根底には「出来る人がすべき」という考えがありました。それ自体は悪いことではないし、特に日常生活の中ではそうしないと何も出来ない人間が出来上がります。

しかし、実際の仕事現場を考えてみると、私はかつて「できるから」「好きだから」を理由に気が付くと仕事を自分で増やし、それを抱え込んで苦しくなることもありました。それは自分の中で「労働」の基準が曖昧だったり、組織の中でどこまでを「労働」として従業員に担当させるかが不明確であったことが原因だと思います。

一方で、すべて規定することで逆に理想的な結果を出せなかったり、仕事をしにくくなる状況も生まれてくると思います。私の場合は、労働の基準が曖昧だったことでしっかり準備、対応をして自分の納得のいく結果を出せたことがあったことも事実です。他にも、例えば実験などを行う研究職では時間を区切った働き方は出来ない、ということもあるかもしれません。病院の救急対応が無ければ困る人は大勢いるかと思います(医療現場の労働環境には様々な意見があります)。

つまるところ、自分にとって、企業にとって「労働」とは何だろうか、自分の労働観は日本的か、西欧的か、というところまで掘り下げてから改革をしなければ、根本の問題の解決にはなりません。そもそも、「働き方改革」の目的は労働者の自己実現であり、残業時間制限が目的ではないはずです。各企業、各個人が自分にとっての「労働」とは何かを考え、より働きやすい環境を自ら作ろうとしていく姿勢が必要だと思います。

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