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連載「十九の夏」【第三回:陽菜子との再会】

 帰省二日目の朝。今日は「忘れたリュックを取りに行く日」だ。昨日荷物に置いてきぼりを食らわせてしまったあのバス停の前で、夏樹はポシェットを下げてバスが来るのを待っている。身分証明書はとりあえず大学の学生証で構わないだろう。身分証明が必要なのも、荷物の持ち主になりすまして、他人の荷物を盗み持っていくようなことがないように、受け取る際にその身元をしっかり確認しているのだろう。夏樹はそのように考えながらバスを待っていた。

 さて、ちょっと滑稽かもしれないが、夕べ、久しぶりに実家に入ったときの違和感を「まるでガリバーになった自分が小人の家に入ったときのようだ」と夏樹は自分の頭の中で表現してしまった。もう高校を卒業した十八歳、たったの四ヶ月ではそう背丈が伸びる時期でもないのに、不思議なものではある。親からの援助を受けつつだとはいえど、東京で四ヶ月、なんとかやってきて精神的にも成長はしたのだろうか。そんなことを思いつつあるところへ、バスがやって来る。
 バス停の先頭に着いていた夏樹から順にまだガラ空きのバスに乗車していく。このバス停では夏樹の他にも何人かの客が乗ろうとしている。高校生らしい男子二人に老夫婦一組、赤ちゃんを抱っこした若いお母さん。あと、もうひとり。
「待ってー! 待ってくださーい!」
 そう叫びながら向こうから駆けてくる若い女性も乗客になるようだ。年の頃は高校生くらいらしいけれど、制服姿ではない。バスの運転手はほんの少し停車時間を延ばしてその女性が乗り終わるのを待って、走り出す。

「あれっ、なっちゃんじゃない? 久しぶりー!」
 ふと見ると夏樹の隣の席にさっきバスに向かって駆けてきた女性が座ってきて、そう声を掛けていた。あれ、この人だれだっけ、と夏樹は数秒間考える。まさか、見ず知らずの人が夏樹のことを「なっちゃん」などとは呼ぶまい。

「あっ、北村さん?」
 ようやく夏樹も相手のことを思い出した。彼女は夏樹の同級生だった北村陽菜子(きたむら・ひなこ)だ。夏樹とは幼稚園から、小学校、中学校、果ては高校まで同じだった、夏樹にとっては幼馴染の女の子と言えるにじゅうぶん値する存在である。同じ学び舎で過ごしてきた十数年の教育課程では同じクラスになることも度々あったが、それも高校一年のときが最後だった。

 もっとも、思春期の高校時代を過ごす中で、同じ学び舎に幼馴染がいるというのは、かえって気恥ずかしいものではある。中学までは住む地区ごとに学校があってそこに生徒が集まるので、同じ学び舎にも幼馴染はちらほらと存在するが、高校まで一緒となる存在はそう多くないだろう。それでも気さくなほうである陽菜子は高校一年のクラスでも夏樹にも「なっちゃん、おはよう!」などと挨拶などを交わそうとしていたが、夏樹は敢えてそれを無視したりはしてしまっていた。夏樹のような目立たぬ男子生徒が「ちゃん」付で女子生徒から呼ばれるなんて、からかわれに発展するのではという懸念さえ夏樹の中では抱いていたのだ。

「うん、北村だよ。北村陽菜子だよ。折原夏樹くん、だよね?」
 陽菜子は微笑みながら、自分のフルネームを名乗り、同時に夏樹のこともフルネームで呼んだ。
「はい、折原です。折原夏樹です。北村さん、久しぶりだね」
 夏樹は、ついつい少しかしこまったかのような口調で台詞の、特に前半を言って、自分が折原夏樹であることを認めた。それを確認すると陽菜子の顔の微笑み度がいっそう増した。
「うん、久しぶりー。そうそう、なっちゃんって確か東京の大学に行ったん、だよね? 帰ってきたのかな? 夏休み?」
 一度だけフルネームになった陽菜子の夏樹への呼び方がまた「なっちゃん」に戻った。
「うん、大学は夏休みだから東京から帰省してる。昨日から」
「へぇー、そうなんだ。おかえりー。ちなみにどこの大学なのか聞いていい?」
「大江戸理科大学」
「えっ? あそこってめっちゃ頭いいところじゃないの? しかも理系ってスゴいなー」
 そういう言い方をされると夏樹も反応に困ってしまう。
「えぇ、まぁ……。北村さんも大学生?」
「それがねー、今年は浪人生なのよ。今も予備校に行くところだし……」
 あくまでも「今年は」ということを強調するかのように陽菜子は言った。
「そうなんだ……、大変だね」
「毎日予備校で真面目に勉強しているか、と聞かれたとして、はいと言えば嘘になっちゃうかも。だけど、今日から模試だから遅刻できなくって。それなのに寝坊しちゃった。でも、バスに乗り遅れなくてよかった」
 陽菜子は富山駅近くの予備校にいつもバスで通っているとのこと。高校一年ではクラスは同じであったものの、二年からはそれも別々になってしまった夏樹と陽菜子。それからはお互いに挨拶すら交わすことなく、卒業までの時間が流れていった。それぞれが大学受験に向けて、自分の勉強で精一杯、といった空気も高校の学び舎には漂っていた。

「なっちゃんは今日はお出掛けかなー」
「う、うん。ちょっと富山駅のほうに用事があってね……」
 さすがの夏樹も昨日バスの中に置き忘れたリュックを取りに行く、とは言えなかった。
「へぇー、久しぶりに富山に帰ってきたんでしょ? ついでだから富山のいろいろなところ回ってくるのも、いいかもねー」
 陽菜子がそう提案した。それでリュックを受け取ったらすぐまた帰宅するつもりでいた夏樹も、せっかく富山駅方面に出るのだから、懐かしい場所を二、三は巡るのも悪くないか、と考える。

 そんなうちに、バスはもう富山駅のロータリーに入ろうとしていた。終点なので、乗客はみなここでバスを降りる。陽菜子と夏樹も連れ立ってステップを下っていく。
「じゃあ、なっちゃん。今日は久々の富山、楽しんできてねー」
「北村さんも、模試がんばってねー」
「ありがとう。がんばる! お互いよい一日を、ね」

 夏樹と別れ、予備校のあるという方角に向かって短めの髪を揺らしながら小走りで遠ざかっていく陽菜子。浪人生という立場だからだろうか、おしゃれしているわけでない。前々から素朴でボーイッシュな雰囲気の陽菜子。気さくな性格も相まって、誰からも好感が持たれやすそうなタイプだ。そのへんは相変わらずなのに、しかも十数年一緒だった幼馴染なのに、なぜさっきは陽菜子の名前すら瞬間には出てこなかったのだろう。

 さて、再びひとりになった夏樹。駅の近くのビルの上の温度計に目をやる。朝の九時になろうとしている今の時点で既に気温三十二度だとか。何せ真夏も真夏の時期である。朝っぱらから一丁前に暑い。早朝さえでも熱帯夜あがりの暑さである。そして、ここ街中の路面は蒸し暑さに加え、照り返しが容赦ない。とりあえず、環境的にはさわやかな朝、とはとてもいいがたい状況である。しかし、陽菜子との思わぬ再会をした夏樹にとっては、陽菜子のさわやかな人柄に触れ、気持ちばかり、心の風通しがよくはなっていた

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