連載「十九の夏」【第七回:開式の辞】

 昔々、夏樹や陽菜子たちはもちろん、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんさえもまだ生まれていない頃、そう大きくもないはずのこの川も氾濫して地域に災害をもたらすことがたびたびあったそうだ。明治の終わり頃のある年の八月末の時期にも大型の台風の襲来とともに多くの被害と犠牲をもたらす氾濫災害がこの地域で発生した。それをきっかけに国や県などもこの川の治水工事に初めて着手することとなった。そして、時代が下り昭和になり、さらに太平洋戦争後しばらくして、行政にも国民生活にもある程度の余裕が出てきた時代になると、毎年八月の最終土曜日の夜にはかつての氾濫災害の犠牲者を偲び、これからの川の安全を祈願する意味も込めた花火大会がこの川の河川敷で開かれることになったのだ。
 もっともそんな歴史的な背景よりも、地域の住人たちにとっては、開催時期も時期だけに、「夏休みの最後を飾る花火大会」という認識が強いようだ。この地域の小中学校でも「花火大会までには夏休みの宿題を終えていましょうね」なんて指導されるくらいだ。それを遵守する児童・生徒はどれだけいるのやら、だが。

 夏樹たちが歩いていくうちに薄明もどんどん弱くなっていき、夜の闇が迫ってくる。
「暗くなってきたね。気をつけてね」
「うん、大丈夫。特に足元気をつけないとね。なっちゃんも」
 夏樹と陽菜子がそれぞれ互いを気遣う台詞を交換したところで、防災無線から「ピンポンパンポーン」と合図の音がなる。

「皆さま、こんばんは。七時になりました。本日の花火大会は予定通り七時三十分より打ち上げを開始いたします。本日はお集まりいただきありがとうございます……」
 やや無機的な感さえ受ける女性アナウンサーの声が防災無線から流れている。河川敷のあちらこちらの防災無線から同時に同じ音声が流れているので、音速の効果もありエコーが掛かってしまっている。大会に先立って、花火大会の実行委員長だというこの地域選出の市議会議員からの挨拶が流れる。例によって、祝辞に続いて、この花火大会の由来であるこの川の氾濫の歴史や、毎年の花火大会の開催に至った経緯などを話している。
「……でありますからして、エー、小生におきましても、この地域をはじめとする、エー、全市の安全を第一とした、エー、風通しのよい市政を行って参りたいと存じます……」
 いかにも恰幅の良さそうな議員の声だ。もっとも、花火大会の夜にわざわざ議員の市政への意気込みを特に改めて確認したいと思う市民はそういないだろうが。まさに月並みといった長い挨拶に続いて、市民の歌が流れ出す。市出身の演歌歌手の歌声によるものらしい。

 周りにはもう人が集まってきている。ふたりはゆっくりと、足場を探しつつ、一歩一歩と歩んでいる。
「なっちゃん、この歌手の名前、聴いたことある?」
「ない……、な」
「あはは、あたしも。というか、演歌歌手が市民の歌を歌うなんてちょっと奇妙だわ。エコー掛かってるし。他に歌い手居なかったの、って感じだよね」
「というか市民でありながら、市民の歌なんて覚えてないぞ。今は住民票は東京だけど」
「あたしもよー。そんな歌、学校でですら特に習わないもんね。小学校の校歌ならまだ覚えてるけどね」
「じゃあ、今でも歌えるかな?」
「うん。だけど、今歌うのはちょっと恥ずかしいかなー。もう人かなり集まってきているから」
「んー、いつか同窓会があったら、北村さん。歌ってみてよ」
「うーん、それは……。そうそう、今いるこの辺りで見るのがちょうどよくない?」
 陽菜子は周りを見渡しながらそう言った。

 それを受け、夏樹も周りを見回す。薄明はもうほとんどすっかりなくなり、空は闇に包まれつつある。河川敷と通路のあいだに用意された安全確保のロープを支える支柱に括り付けられているライトが点灯して観客の足元を照らしている。これ以上打ち上げ場所に近いところはどうやら人の山で「行き止まり状態」のようだった。
「そうだねー、じゃあ、ここで見よう。立ちん坊で見ないといけないけど」
「それくらい大丈夫よ。……あら、変わっての曲はうちらの学校の校歌じゃない、噂をすれば……」
 防災無線からは地域の小学校、続いて中学校の校歌が流れ出す。今度は演歌歌手の歌声ではなく現役の児童・生徒による合唱とのこと。録音だとのことだが。相変わらずの不気味なエコーがかかっての、だが。
「小学校のも、中学校のも、なんだか懐かしいわねー」
「花火大会のオリエンテーションとしてはいかにもお役所仕事って感じで面白みないけどな」
 夏樹が苦笑しながら、開式セレモニーへの突っ込みをつぶやいた。

「そろそろ始まるのかなー? ……きゃっ!」
 陽菜子が軽い悲鳴をあげた。向こうから小さな男の子が暗闇の中、駆けてきたのだ。ちょうど陽菜子の足元のほうに向かってきたので、避けてあげようとした矢先にあった小石につまずきそうになったのだ。
「あ、危ないよっ!」
 夏樹はそう叫んでとっさに陽菜子の腕に手を伸ばした。ほぼ無意識のうちのことだった。夏樹の大きめの手のひらが陽菜子のか細い腕元をつかむ。陽菜子の身体は幸いまだ少し傾きかけたところで済み、転倒などをすることはなかった。夏樹のほぼ無意識のうちの対応が功を奏したのだろうか。夏樹がやさしく陽菜子の腕を引っ張ってあげる。
ふと、その瞬間、陽菜子の髪の香りがする。同時に右の手のひらが陽菜子の左の腕元をつかんでいることをようやく意識する。我に返った夏樹の心拍数は一時的に急上昇した。
「大丈夫、ありがとう!」
 陽菜子がそう言った。もう陽菜子は身体のバランスを取り戻していた。夏樹はそっと陽菜子の腕元から手を離す。そこで、防災無線からあの、やや無機的な声がエコー付きで響く。
「それでは、只今より花火の打ち上げを開始いたします……」
 陽菜子が叫ぶ。
「なっちゃん、はじまるみたいだよっ!」
「……ん、あ? そうだねっ!」
 そう答えた夏樹の心拍数はいまだ下がらないままだった。

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