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現代建築

近代建築の五原則はコルビジェにおいてすでに定説されている

1.ピロティ
2.屋上庭園
3.自由な平面
4.水平連続窓
5.自由な立面

である

しかし現代建築においての概念は未だに確立されていない
現代建築を定義するならそれはおそらく「未だ見ぬ新しい世界を見せる建築」を指すのではないだろうか
今自分がここまでで培った経験から現代建築について言語化翻訳を試みることにする


現代建築の五原則は

1.自由な断面
2.光庭
3.多層空間
4.ミニマリズム
5.自然法則から成立した形態

であると仮定する

以下に簡単に補足する


1.自由な断面

時代の進化に伴った施工性や構造技術の革新によって多様な空間を創造できるようになった
二次元平面的な考えから3次元的なコミュニケーションいわゆる縦方向への変化可能性を示唆することにより、高度な「空気の非平衡状態」を造り出す

2.光庭

建築用語で言ういわゆるボイド(void)空間の創出である
単なる中庭ではない
重要なのは、その「内」とか「外」というものの区別じたいを造りだしているシステム、あるいはその区別を解消させてしまうようなシステムの創出である
今ここに豆腐があったとして、中央を指で押し潰してみたとする
今指で作った中央の空間は豆腐からすると外の空間だが、世界からすると豆腐で囲まれた内の空間(中庭)とも捉えられる
わかりやすくもう少しイメージを挙げるなら、例えばメビウスの輪は表と裏が反転もするし共存もする

3.多層空間

赤色や青色はそれぞれ単体だと一色の可能性しかないが、二つが重なり合わさった時各々の赤色青色の他に紫色という可能性が現れる
ここにまた新たな白色という絵の具が重なったら…
異なる空間をいくつもいくつも重ね合わせることで互いの化学反応によってそこには違った意味を持つ空間が偶発する

4.ミニマリズム

これは単純に「何も無いように見える建築」「すっきりとしている建築」という今巷に溢れかえっている「非常に簡素(ミニマル)に見えるが、その見たまんまそのまま何も無いもの」ということではない
言うなれば「一見簡素(ミニマル)に見えるが、実はそこには想像し得ない可能性を秘めた場の状態」のことである
サッカーでいうとフィールドに当たる
フイールドはただの空っぽの空間であるが、スイッチを入れればひとたび選手という因子がルールの上で様々な動きをしエキサイティングな試合を創る

5.自然法則から成立した形態

自然現象は人間が造るものなんかよりも遥かに美しい
貝殻の渦巻き模様、複雑な葉脈の形、海の波の形、たばこの煙のくゆり方、鍾乳洞の空間、砂浜の風紋、、、、、これら自然現象の根幹には必ずすべて数学的法則がある

複雑に見えるカオス世界も根幹はとてもシンプルな数式なのである

この根幹(ルール)がとても重要で、宇宙の事象はただこれを時間軸で発散させた結果にすぎない

これは単純に「波の形がカッコいいから波みたいなユラユラした建築を造る」という話をしているのではない
それはただの形態模写である
そうではなくて、波の形がカッコいいから「波を創出している自然法則 y = Asinωt をアルゴリズムにして形態を創る」ということである


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現代建築を作る上で最も大切なことは誰かが勝手に想定した「常識」に囚われないこと

例えばだいたいの近代建築は「床」「壁」「天井」はすべて「90度」で構成されているが、それはたかだか施工が一番簡単であるというあまりにもお粗末な理由である
「四角が一番使い勝手がいいから」とか口車を回して(まだ説明しているだけマシかな)、何も疑うことなく業者側の都合で僕たちは住む空間を強制的に決められているのである

角度は「0度〜360度」まであるのに、どうして「0度・90度・180度・270度」という4つだけが特別視されるのか?

同じように部屋の間取り、窓の位置、構造、設備機器、、、、、とにかく沢山のことが、当たり前のこととしてお約束として処理されている
毎日の仕事で疲れてやっと辿り着いた「我が家」が、そんな簡単な理由で決められていいのだろうか?

水廻り(キッチン、トイレ、バスルーム)はなぜ当たり前のように奥まった位置に配置して地味な設計をしなければならないのか?
南の一番いい位置にバスルームを置いて、夕日を見ながら入浴を楽しんではいけないのか?

世界の建物で本物と呼べるような建築なんて1パーセントも無いだろう
自分のための芸術品が、一週間ほどで存在を忘れてしまう芳香剤やヤリ捨てされる女性のようなそんな住居で良いのだろうか

彼等にしてみれば、本来であればもっと奥深い本当に豊かな人生の体験ができる可能性があったはずの建築を、志の無い設計者によって「不完全な満足感」としてみすみす奪われてしまっているのです

「法規を考慮した結果」「マンションなので」「コンクリートだから」、、、、、
こんなあまりにもどうでもよいことが「建築が誕生させられる理由」になっているなんて、あまりに建築をナメていないだろうか?

だから「赤い屋根のお家に住みたい」「広いキッチンが欲しい」「暖かみのあるように木の家が良い」などとあまりに短絡的になってしまうのだ
コンクリートの建物でも温かみのある建築を作ることは十分に可能です
そういった議論は、「男は特攻服、女はフリフリのレース服」といった決め付けと変わりないのではないだろうか

建築というのが、これだけ社会的、経済的、文化的影響力のあるものであるのなら、質の悪い建築物を作ったら刑罰に処すような法律があってもおかしくないのじゃないか、と僕は本気で思っている

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