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視覚と嗅覚とにほひ、個体としての経験

いや、きっと忘れないだろうと。

高精細になり、現実よりもきれいに保存できるようになった画像や映像。
視覚の感動はもはや保存可能になったのかもしれない。

にほひは、どうだろうか。
河原の桜なんかを見に行くと花の匂いなんかより、川のドブくささが…いやなんでもないです。
嗅覚という点ではそうかもしれないが、その場で自分がいる空気全体をにほひと捉えるならばどうだろうか。
感覚全体の保存、つまり複製は可能だろうか。
また可能であった場合その精度はどうだろう。

「あの河原の桜のかおりを再現しました」はもはや可能でしょう。
でも、「あの場所にあのとき行ったぼくたちを包んだあのにほひ」は、どうなのでしょうか。
いつか忘れられるものなのでしょうか。いいえ、きっと忘れはしない。
ん?再現可能であることは忘れられることであると認識した自分はなんだろうか。

画像、動画、ことば、絵画。
そういった「にほひ」を想起する道具が豊富なのはよいことではないでしょうか。
テクノロジーの発展についていくということは、その中で私が私としてあることを時折思い出していくことでもあるのかなぁなんて、桜まつりに行きながら思った。
技術で人間性が損なわれるだろうか。そんなことはないだろうと。人間性は人間によって損なわれているだけのことだろうといつも思う。

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