第33回 剰余価値(Mehrwert)、その1:マルクスの理論とMMTのそっくりなところ
「資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第33回。
このシリーズ、しばしば「次回は○○について書こうと思います」と言いつつも、蓋を開ければ別の話題に移っていがちなわけですが、今回もそんな感じで。
ええ、忘れているわけではないんですが。
資本論 - MMT - ドイツ観念論の三位一体のうち、ドイツ観念論を背景に下げて「資本論とMMT」という枠組みで、正面から少し何かを語っておきたくなったのです。
マルクスの歴史的な貢献は、唯物論的な歴史観の発見と、剰余価値という概念を通じて資本主義的生産の秘密を暴露したことである、などと言われます。(エンゲルスだったと思います)
歴史観はともかく、剰余価値の方は経済学的な話なので、MMTとつなげやすい。
というか、そういうことをしようと思ったら剰余価値概念を入れないとピンぼけにしかならない。
まあやってみましょうか。
経済の問題は、富の格差に集約されるということができます。たとえば貧困問題は、富というものが存在しているから問題として認識される。
では、そもそも富はどこからやってくるのか。
交換からでしょうか?
交換ならば、それは、それは交換対象物の持ち主が変わるだけなので社会全体の富の増減はありえない。
実はMMTにも論理構造がこれとそっくりな話があります。
「もし政府の財政赤字がゼロであれば」という条件が付きますが、その場合、非政府部門の総金融資産が増減することはありえない。
まとめておきます。
このこと(もし政府の赤字がなければ社会の総金融資産の増加はありえない)はMMTのいちばん初歩の初歩、イロハのイに属することであって、少なくとも、ここに疑問を残しているならMMTを理解することには決してならないでしょう。JGPに賛成しない人だとしてもです。
また、MMTを齧った人がまだそれを知らない人に対してその説明をするときに、ここはしっかりと説明しなくてはならないはずです。
会計的事実\(^o^)/ですからね(笑
同じことがマルクスの経済理論にも言えます。
「もし剰余価値(を生む取引)がなければ社会の富の増加はありえない」というのは、マルクスの経済理論を語る上で絶対に理解しておかなければならないことです。
だってこれも会計的事実\(^o^)/ですからね(笑
どういうことか?
このことは、第30回 「支出」と訳される資本論のVerausgabung を、村上春樹と信玄餅で理解する(前) の内容と密接に関係しています。
このエントリの続きを書こうとして、いやいやその前に「剰余価値」の説明をするべきじゃんと思ったというわけ。
実はひょんなことから入手したこの本↓を読んでいて気付かされたのですが、いま「剰余価値」概念を日本語できちんと入門的に説明した書籍って、事実上存在しないんじゃないでしょうか。
その事情を次回に少し説明するつもりですが、マルクスの「剰余価値学説史」が草稿の形でしか残っていないのが痛い。
いまご紹介した上の本ですが、その前半は、今から72年前の西暦1952年に出版された、末永茂喜「経済学史」の復刻採録になっています。これを超えるものはおそらくなかなかない。
それではまた次回!
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