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人生の主人が帰って来た(空いた家)

はじめに

私が良くメッセージを聞いている牧師さんが、初めて福音を聞く方はもちろん、幅広い背景の方に向けて発信を始めています

私自身も気づきが多いコンテンツのため、ただ拡散、ではなく記事という形で共に味わえたらなと思います✨

こちらのメッセージ動画(YouTube)は60分、記事は5-10分ほどです。気になる方から見ていただけたらと思います🔔

メッセージ「空いた家」

"汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。"
マタイの福音書 12章43~44節

メッセージでは、人生の主人が必要だという事が語られました。そしてまことの主人となりうる方はただ1人、キリストです。

まことの主人が不在だとどうなるか。人生が一時的に良くなっても、根本的には悪魔が私を支配しています。

その上で語られたのは、主人不在のままでも、自らの努力や戒律で幸せになることができる、という考えからまず離れること。

"そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」"
マタイの福音書 12章45節

次に語られたのは、日本でキリストか・・という世間体や[どの信仰も結末は同じ]とする考えから離れること。

そして、神様に敵対した者、教会を利益のために利用した者の末路を知り、おなじ道から離れることでした。

最後に、新しい生き方を望む方、キリストをまことの主人として受け入れたい方をおいて、祈られました。

世の中が私の主人だったとき

"土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。"
創世記 3章17節

私自身は社会人になる前に、心の支えが必要だと思いキリスト教会に足を運びました。自分に自信が無かったからです。

教会に通ってはいましたが、キリストを本当には信じていませんでした。正確な福音を知らなかったのです。

複数ある宗教のうち1つを選んだ、という感覚でした。なので他の宗教含め、すべての霊的な事を尊重するようになりました。

"「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」"
サムエル記 第一 7章3節

また、教会に所属してもお金はかからない上に居場所と友人ができる。私の気持ちが癒される・・損得感情で見ていたのです。

それで、どうだったかというと現実に負けていました。日曜は教会で癒されても、平日は心身ともに、すり減る一方でした。

結局、私は教会から離れていくことになりました。世の力が必要だと思ったのです。神様では不充分だと考えていました。

私が私の主人だったとき

"そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」"
創世記 11章4節

私は力を求めました。当時学んだのは「自分が源」「結果の原因は自分自身」という考え方です。

私の人生の主人は私。願望に正直になって、目標を持って。そして仲間もでき、共に進んで行きました。

この生き方こそ理想的だ、と信じていました。しかし実は、いつ崩れてもおかしくない状態の中にいたのです。

"それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。"
創世記 6章6節

聖書の創世記には原罪、ノアの方舟、バベルの塔の話があります。(3章、6章、11章)

神様ではなく私中心となった人にのろいが、世が中心となった人に災いが、成功中心となった人に崩壊が、ある日臨みます。

これはただの物語ではなく、今も適用されている真実だと感じます。ある時期をキッカケに、私にもそれが始まりました。

私が神様の主人だったとき

"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"
マタイの福音書 11章28節

再度ボロボロになった私はようやく、神様と本当に出会う事ができました。[キリストの福音]を知ったからです。

しかし問題は何かというと、キリストが私の主人となる事が嫌だったのです。これまでの人生で根付いた体質でした。

礼拝を中心にした生活を送り始めるようになり、少しずつ変えられていきましたが、私の主人は依然、私のままでした。

"わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。"
マタイの福音書 11章29節

この時期はキリストを信じたとはいえ、きついメンタルの問題が根強く残っていました。

振り返ると私に必要な期間でしたが、当時は苦しみとともに、信じているのにどうして?という想いがありました。

ある日神様に祈る中で、転機が与えられました。

神様が私の主人です

"あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。"
ヨハネの福音書 15章16節

その日、強いリアリティを持って、みことばが私に迫ってきました。

「わたしがあなたがたを選んだ」

感動でも、喜びでもなく私は畏れを感じました。

後にもう一度、同じ言葉が響いてきたことがあります。今にも雷が落ちてきそうな感覚でした。

「わたしが、あなたがたを選んだ」

その時からです。私はようやく屈服しました。徐々にですが神様を私の人生の主人として、認め仕える生活が始まりました。

本当のいやしが、始まりました。いやしとは神様の中で生きるよう創られた、本来の人のあり方を取り戻すことだったのです。

家の主人が帰ってきた

"わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。"
イザヤ書 43章4節

今も私はいやしの途中、回復の途中だと感じています。

以前は成長願望、なりたい私の[像]がありました。しかしそんな私のこととは別に、神様が望まれる私がいたのです。

どうしようもない私の心と考えは変わりません。でも今は、キリストの心が私を満たそうとしてくださるのです。

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章28節

また人生は良くも悪くもこうだ、という世界観がありました。残酷な世の中で、努力して生き抜くしかないと思っていました。

しかし神様は神様の原理で、私の想像を超えて働かれていることがわかってきました。本当は全て益としてくださることも。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。今日も感謝して、まことの主人に仕えていきたいと思います✨






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