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「道」(ヨハネ14:6)

はじめに

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14章6節)

私の通う「新宿キリスト教会」2023年8月27日のメッセージを文字起こししました。同じ教会の方だけでなく、多くの人に読んでいただけたらと感じたからです。

Youtube動画もあります。動画を見ていただいても、文字起こしを読んでいただいてもどちらでも構いません。

メッセージ「道」(ヨハネ14:6)

私たちは毎日どこかへ行こうとして家を出ますけれども、時には道に迷ったりして目的地に着くことが難しい場合もあったりします。で、そのような時でさえも誰かに尋ねれば、ほとんど行こうとしているその目的地にたどり着くことができます。この時代は月にさえ生きたいと思うならばロケットに乗って月にたどり着くことさえできるそのような時代になりました。しかし神は霊です。神は私たちの目で見える、そのような方ではありませんから、神様のところに行こうとするならばどうすればいけるのでしょうか。

私たちの方からその道を探し出すことは不可能であるために、イエス様が先ほど読んでいただいた本文にありますように私が道である、と言われました。私を通してでなければ父、神のもとに誰も行くことはできませんと。なぜイエス様を通してでなければ神様のもとに人は行くことができないのでしょうか。神様はどのような方でしょうか。

創世記の1章の1節を見ると、初めに神が天と地を創造したとあります。天と地とその中にあるすべてのものを、神様は創造された方です。で、神様の作られたその被造物の中に私たち人間も含まれていますし、むしろ神様が天と地をつくられたその目的は人間のためであるということです。それでは人間はどのように作られたのでしょうか。我々に似たものとして人間を造ろうと言われました。創世記の1章の27節、神のかたちに似たものとしてということです。

神は霊ですから、神のかたちに似たものとして作られた人間は、本来霊的な存在でした。土地のちりから体は作られましたけれども、しかし鼻から息が吹き込まれて、そして人間は神と共に生きることができるそのようなものと造られました。そのための条件はただ一つだけです。創世記の2章の17節、エデンの園に神様は作られた人間を置かれました。で、エデンの園には善悪を知る知識の木の実というものが園の中央に置かれていました。人間が神様と共に生きるただ一つの条件は、この善悪の知識の木の実を取って食べないということだけでした。他に何もありません。ただこの木の実さえとって食べることをしなければ、いつまでも神様と人間は共に生きることができる。そのようなものとして造られました。

で、神様が造られた被造物の中に御使いがいました。その御使いの一人が、私も神の座について。そのように心の中で高ぶった御使いがいました。その御使いが天から落とされて、黙示録の12章の9節天から落とされてサタン、神に反逆するものとなりました。それから悪魔、人間を惑わすものとなりました。それでこの古い蛇はエデンの園にいた人間を惑わしました。この善悪の知識の木の実を取って食べればあなたの目は開いて、あなたは神のようになります。で、この人間がこの善悪の知識の木の実を見た時に悪魔の言葉に完全に惑わされてしまって、取って食べてしまいました。その時、神様から人間が離れてしまいました。それが、創世記3章1節から6節までの問題です。

神様から離れてしまったということは、神様の言葉を破ったということです。神様の言葉を破ること、それを聖書で罪と言っています。何か私たちが悪いことをしたというそのことも、もちろん罪に違いありませんけれども本来の罪というのは神様の言葉から離れたということです。神様の言葉にとどまっていれば、いつまでも神と共に人間は生きることができたのですけれども、しかし神様の言葉から離れて悪魔の言葉を受け入れてしまいました。
その時からヨハネの福音書の8章の44節、あなた方は悪魔から出たものであって、と。もともと神様から出た人間ですけれども、この時からは悪魔から出たもの、そのような身分になってしまいました。

それで人間は創世記の3章16節から19節、すべての呪いを受ける。神様に似たもの、神のかたちを持った人間はすべての神様の祝福をエデンの園で受けて何の問題もなく生きることができるようになりましたけれども、しかし神様から離れた結果は祝福を全て失ってしまいました。祝福を失ったということは、あらゆる呪いと災いが毎日のように波のように人間に押し寄せてくるという現実です。

それは人間の身分がヨハネの福音書の8章の44節、悪魔の子供というそのような身分だからです。この身分にすべての呪いと災いが来るようになってしまいます。で、悪魔の子供という身分は出エジプト記の20章の4節と5節にありますように神様を礼拝することができませんから、被造物であるこの世の何かを礼拝するようになります。霊的な存在として人間は造られましたから神様を求めたいというそういう本能は、人間の中に残っています。その残っている本能が神様を求めようとする時に人の方から神様に行くことは絶対に不可能ですから、造られた被造物の中で死ぬべき人間であるとか獣であるとかあるいはお金であるとかあるいは宗教であるとか思想であるとか、いろいろなものがその人の偶像となっていますから、神様から離れた人間は偶像礼拝をする以外に他に道がなくなってしまいました。

で、神様から離れたということはマタイの福音書の11章の28節闇、混沌、虚しさという、光を失ってしまいましたからそこにあるのは闇です。神様を見ることができません。それで考えは混沌としていますし思いはいつも虚しく何をしても満たされない状態です。もちろん一時的に快楽とか楽しみとか喜びは味わえます。今も多くの人たちは神様から離れた状態でそのような喜び、快楽を味わって生きていますけれども、しかしもっと深い心の中にあるものは安らぎがないという状態ですから、恐れ、不安、心配、思いわずらい。そのような状態で生きていますから心は病んでしまいますし、精神も病んでしまいます。多くの人たちが心の病気、精神の病気になっているその根本的な原因は神から離れたという、そこから来ています。

で、心と精神が病むだけではなく肉体も病んでまた人によっては使徒の働きの8章の4節から8節、この町に住んでいる多くの人たちは病人でありまた悪霊に憑かれていたとあります。今の時代、瞑想が流行っていて心を空っぽにしてそして何かを心に入れなさい、とそのような瞑想したりヨガをしたり、あるいは気功運動などしていると、汚れた霊が勝手にその人の中に入ってくることができますから、悪霊に満たされてしまって、そして悪霊につかれてしまっている、そのような人たちもたくさんいます。

で、このような状態で人は死んでいきます。ヘブル人への手紙の9章の27節、人によっては本当にいい人生だったと思って目を閉じる人もいるでしょうし、本当にこんな人生だったら生まれてこなかった方が良かったと思って死ぬ人もいるでしょう。どのような死に方をしたとしても人は一度死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが定まっています。もともと人間は神様によって作られた状態で存在です。人が認めようと認めまいと一切関係なく人間であるということは、そのようにしてもともとは作られていますから、神様の前にやがて立つことになります。で、このような生き方をして神様の前に立ったならばその人はどうなるのでしょうか。当然私は滅びるしかないと。自分の存在、自分の姿というものが悪魔のかたちを持っている。偽りがあり欲望があり人殺しがあり、どこにも神様を愛する愛はなかったということがわかるようになります。ですから自分は滅びますし、それは自分の問題だけではなく第一コリント人への手紙の10章の20節、子どもたち孫たち3代4代に至るまで、親と同じように偶像礼拝をしてそして死んでいきます。ですから子孫にもその滅びが当然臨みますから、人はこれが神から離れた人の運命であり運命だと、場合によってはもう諦めている人たちもいます。

しかし神様は創造主でいらっしゃるというだけではなく、第一ヨハネの手紙の4章の8節に神は愛ですとあります。神様はこのようにご自分から離れて、今も偶像礼拝をしているそのような人間をさえも愛してくださっているということです。で、その神様の愛はこの人間を救おうというその救いに現れました。

それが創世記の3章の15節、女の子孫をこの世に遣わしてこの女の子孫によってこの蛇の頭を打ち砕くということです。今もこの世界はこの目に見えないサタンとそのしもべである悪霊が支配しています。ですからそこから人間を解放するためには神様が遣わしてくださるこの女の子孫によって可能になるという約束です。女の子孫として来られた方は出エジプトの3章の18節、いけにえとなると言われました。罪を冒した魂は死ななければなりませんから、その罪の問題が解決するためには生贄が必要になります。それでこの生贄となる方は男の子孫、罪を持っている子孫では解決しませんからイザヤ書の7章の14節、処女が身ごもって男の子を産むと。そのようにして神様の力でなければこのような人間はこの世に誕生することは不可能ですけれども、しかし罪のない人間がこの世に来られてこの問題をすべて解決する、旧約聖書の中で神様は前もってこのように約束を与えてくださいました。

それで神が人となってこの世に来られて、その名をイエスとつけられました。このイエス様がおっしゃった一つのことは、この罪の問題を解決するためにマルコの福音書の10章の45節、私が来たのは多くの人の贖いの代価として自分の命を捨てるために来たのです。そのように言われました。それからこの悪魔の問題があります。神の子が現れたのは、この世の王であるサタンに対して真の王として第一ヨハネ3章の8節、悪魔の仕業を滅ぼすためです。そしてもう一つ今日の本文にありましたように神様から離れたという問題があります。ヨハネの福音書の14章の6節、私は道である。神様から離れてしまって、どこに行ったら神様に会えるかわからない人間がほとんどですけれども、それで神様に会いたいと人間は思って使徒の働きの4章の12節、いろいろな宗教を作りました。しかし宗教にはこの救われるべき名前がありません。この世界でただ一つだけ救われるべき名として与えられたイエス様の名前、どんな宗教に行ってもこのイエス様だけが道であるというような宗教はこの世のどこにもありません。ですからどんな宗教を熱心にしたからといって経験に信じたからといって神様に会うことはできません。

多くの人たちは良い行いをします。しかしイザヤ書の64章の6節にあなた方の良い行いは汚れた着物のようです。良い行いをどれほどしたからといって清い聖なる神様の前に人間は出ることは不可能なことです。ある人たちは哲学で神様の前に出ようとしています。しかしコロサイ人への手紙の2章の8節、この世の幼稚な教え、それが哲学です。どんなに人間の頭が優秀でどんなことを考え出すことができたとしても、神様にどうすれば会えるのかという道を考え出せるような人間はどこにもいません。悪魔の子供だからです。悪魔は神様に人間が会うことを一番嫌う、そういう存在です。いつまでも自分の支配下に人間を置いてそして自分だけが滅びるのではなく、悪魔のしもべである悪霊だけどもが滅びるだけではなくこの世のようにこのように悪魔の子供という身分を持っているその人間すべてを滅びの中に連れ込みたい、それが悪魔の願いです。ですから、すべての人間はこのようになってしまっています。

それでキリストが来なければこの問題は誰も解決することができません。旧約聖書で神様が約束されていたイエス様が来られて、そしてカルバリ山という山の上で十字架につけられました。悪魔の子供であった人々は殺せと当然のことですけれども、そのように要求しました。罪のない方が来られたので死ぬ必要はどこにもありません。しかし私が来たのはこの中にいる人間を救い出すためですから血が流されなければなりません。それで十字架につけられてイエス様が最後に言われた言葉はヨハネの19章の30節、すべては終わったと言われました。神様から離れた問題、罪と死の原理の問題、悪魔に支配されているこの根本的なすべての人間が持っているこの問題はすべて完了したとイエス様がおっしゃいました。その証拠が3日目に死者の中から蘇られたということです。それはイエス様には女の子孫、処女によって生まれたという罪のない人間だったということです。それでイエス様は死者の中から復活し今も生きておられます。

それで、このメッセージを聞いておられる皆さんは今自分がどこにいらっしゃるのかということです。こちら側にいらっしゃるとするならばイエス様を信じて受け入れる必要はどこにもありません。もうイエス様だけが道であり真理であり命だというこの御言葉を信じて私はこちらにいますというのであれば二度も三度もイエス様を受け入れる必要ありません。しかし今私がいるのはこちら側だというならば永遠に滅びてしまいます。そして永遠に滅びるだけではなく、自分の子孫にまで3代4代と呪いと災いを受け継がせていきます。ですからこのメッセージを聞いている皆さんの中で今私はこちら側にいるけれどもこちら側に移りたいと、そのように思っていらっしゃる方がいらっしゃったならば私が道であって神様から離れた人間がこちらから神様の側に移るただ一つの道だというこの御言葉を信じる必要があります。

そしてイエス様は3日目に死者の中から蘇られました。そしてよみがえられたイエス様は黙示録の3章の20節で心の扉を叩くとあります。こちら側に行きたいというそのような願いを持っていらっしゃる方にはイエス様が自分の心の扉を叩いておられるという、その声が聞こえていると思います。どんなに福音のメッセージを聞いてもイエス様が私の心の扉を叩いておられるということが全くピンとこないとするならばこちらに来ることは不可能なことです。しかしイエス様は死んで3日目によみがえられて今も生きておられて、私を愛してくださり私が滅びから救いに移ることができるように私に今チャンスを機会を与えてくださっているんだとその人はその声が聞こえてくるようになります。

そしてその人自身も本当に私は罪人だ、本来ならば私が十字架につけられて呪われたものとなって死ぬべきだったのに、イエス様が私を愛してくださって、私のために身代わりとなって死んでくださったということが信じられるようになります。それでローマ人への手紙の10章の9節と10節、イエス様が十字架で死なれて3日目に死者の中からよみがえられたことそのことを心で信じて義と認められ神様がその心でこの信仰を持ったならば義と認めてくださるという約束です。神様が義と認めてくださるということはすべての罪をなかったようにしてくださるすべて許してくださるということです。神様が義と認めてくださるということは悪魔の子供であった身分を変えてくださって、新しい身分を与えてくださるということです。そして神様が義と認めてくださるということは神様から離れていた私たちが神様のもとに帰ったので、ヨハネの福音書の1章の12節、悪魔の子どもから神の子どもという身分を与えてくださる、そのような特権が与えられるということです。これが救いということです。

ですから、一度心を開いてイエス様を心の中に受け入れたその人は神の子どもとなる特権が与えられました。で、もうすでにイエス様を受け入れたという人はこちら側に写っていますから再び受け入れる必要はありません。けれども、どんなに聖書を自分はよく知っているとかあるいは毎週のように教会に通っているということがたとえあったとしても、一度も心の中に受け入れたことがないならばその人はまだこちら側にいらっしゃいます。5年10年と教会に通って一番前の席でたとえ礼拝を捧げていたとしても心にイエス様を受け入れてない人はこちら側にいるということです。本人は気づいていないかもしれません。私は聖書も知っているし、賛美歌も捧げているし献金もたくさんしている。しかし受け入れていないということは悪魔の子どもという身分ですからこちら側にいます。それで本当に私はこちらに移りたいと思うならば、信仰が必要です。行いによって神様のもとに行く道はどこにもありませんから、ただ信仰だけで神様はこちらに移してくださいます。それを恵みと言います。行いによるのでありません、ただ信仰によって救われます。信仰によって救われるということは祈りによって救われるということです。神様の前に出てイエス様を心の中に受け入れる、そのような祈りを捧げたその瞬間にその人は救われます。

それで、今まで一度もイエス様を自分の心の中に受け入れる、そのような祈りを捧げたことがない方がいらっしゃったならば、今私が代表して代わりにイエス様を心の中に受け入れるその祈りを捧げますので、アーメン、本当にそうですと。私もその祈りと同じ同意します、そういう思いのある方がいらっしゃったならば、心に信じて受け入れますと最後にアーメンと私が祈りを締めくくりますので、その方も口で告白して救われるのですとありますから、アーメンという言葉だけでさえも、アーメンとは実はイエス様と同じ言葉なんです。イエスと言ったことと同じですから、誰でも主の皆を呼ぶものは救われます。ただイエス様と、このイエス様の名前だけが救いの道ですから、アーメン=イエス様ですから、アーメンとそのように言われたということは、イエスの名前をそこで呼んだということを神様はその人の心をご存知ですから、本当にこの人は心で信じたんだ。神様の前に誰も騙すことはできません。ですから神様はその人の心を正確に今も読み取っておられますからその一言アーメンというその言葉によって、その人は神様に出会うことができるようになります。

それで今から短くイエス様を心の中に受け入れる祈りを捧げますので、皆さんも目を閉じていただいて心を開いてください。そして最後にイエス様をアーメンという言葉で受け入れる祈りを共に捧げたいと思います。

父なる神様、私は罪人です。今まで数えきれないほどの罪を神様の前に冒してきました。そのすべての罪をゆるしてください。イエス様が私に代わって十字架の上でその罪のために、またサタンの支配から解放するために死んでくださったことを信じます。3日目によみがえられて今もイエス様が生きておられることを信じます。今この時間、私の心を開きます。イエス様、どうぞ私の心の中にお入りください。そしてこれからの私の生涯をイエス様が主人となって、導いてください。すべての罪をゆるしてくださったことを感謝いたします。サタンと諸々の悪霊の支配から解放してくださったことを感謝いたします。私を悪魔の子どもから神の子どもという身分に移してくださったことを感謝いたします。この祈りをイエス様のお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン。(おわり)

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