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Can't Stopな小説家

小説を書く時、一人称で書くことの方がわたしにとっては楽だ。自分の思ったままのことを、そのまま、勢いに任せて書けばいい。だけど、その分、ひとりよがりな文章になりがちだ。まあ、三人称で書いてもわたしの小説はひとりよがりかもだけど、実は三人称の方がよく考え、言葉を選んで書いている。

そういう理由もあって、最近、書いている400字小説は《わたし》の一人語りにさせない。それには少なからずストレスがある。書いていても気持ち良さがない。名前を考えるのがいちいちめんどくさい。そして何より、自分で自分を縛り付けている感覚から逃れられない。でも、訓練だと思って三人称で書き続けている。

多くの作家さんがそうであるように、わたしは村上春樹さんに少なからず影響を受けている。といっても村上春樹さんの小説を『ねじまき鳥クロニクル』以降読んでいないのだけれど、それでも引きづられている。音楽の話が頻繁に出てくるのはまさにそうだ。文体も雰囲気も似ていたので、無理やり中原昌也さんとミックスさせて、自分なりに解体して、今の文体に至っている。村上春樹さんの呪縛から逃れるためには三人称を突き詰めるしか術はないと肌感覚で感じていたようだ。

なので、村上春樹さんっぽい小説から脱却するために、三人称で書くことを、いつしか意識して力を注ぐことになった。でも、村上春樹さんの『職業としての小説家』というエッセイ本を読んで、村上春樹さんも一人称に限界を感じて、三人称の物語を書くようになったと記してあった。『海辺のカフカ』からだというので結構昔のことじゃないか。自分がどれだけ本を読んでいないかバレてしまう。

話はちょっと脱線するけれど、本を読むことの重要性もようやくわかってきた。今までは体験することの方が大事だと思って、行動に重きを置いていた。だけど、亡くなってしまった恩師・浅沼先生の「本読めよ」の口癖が今さら身に染みる。体験があってもそれを文字にする技術がなければどうにもならない。もう50目前だから今さら本を読んでも遅いのかもしれない。でも、諦めたらそこで試合終了だし、逆に諦めたらそこから試合開始だとも思っている。つまり、いつ始めたって手遅れってことはないはず。

って何を書いていたんだっけ。ああ、三人称の話。それを実行して書くのは辛いけれど、修行として続けていくことをここに宣言する。すでに三人称に飽きているのだが、それこそチャンスだ。三人称の強みであり弱点である客観性をどう打ち破ってやるのか。いつか自分だけの境地へ行けるのか、それとも疲れ果て一人称で楽をして書くようになるのか。とはいえ、自分だけの境地にたどり着いてもひとりよがりでは無意味だ。一人称で書くことにも制約があるから、それに再挑戦するのもアリだし。

小説家は止まっていてはいけない。自分の文体を獲得しつつあるとわたしは感じているが、改良の余地は嫌になるくらいある。決して、エンターテインメントに迎合するような小説は書かないが、それらを無視することもできないだろう。いずれそんな未開の地に足を踏み入れることを勇気を持って遂行しなければ。でも、楽しく修行するよ。《楽しい》がないと続けられない。それはプロ意識に欠けると言われるのであれば、アマチュアと揶揄されても構わない。でも、わたしはプロなのだと覚悟して、楽しんで書くことを忘れずにいたい。苦しまなくても、楽しめば意味ある小説が書けることを残りの短いようで長い人生を使って証明するよ。そのために進み続ける。

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