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表現への批判や炎上、第三者はどう見るべきか。

先日、渋谷の西武百貨店で開催されている(8/30まで!)展示会『DRAG QUEEN -No Light, No Queen-』に行ってきました。
※これから各所巡業するみたいです

クイーン達の哲学や考え方、世の中へのメッセージを受けて多くの気づきを得ました。個々人にとっての美の探究によって培われたオーラ、そして数々のパンチラインに元気付けられた方も多いのではないでしょうか。美という概念が変わると、社会というものが少し豊かになるかもしれません。

余韻に浸っていたところ、ネットで炎上について知ることとなり、その時に

「情報・心情ともに良し悪しの明確な判断ができない第三者は、炎上をどう見てなに学べばいいのか?」

ということを考えました。
今回はその内容についてnoteしてみます。


何が起きているのか

批判の内容は、ネットで #昼間ドラァグ などで検索していただければと思います。私としては門外漢なので個別の論点は深めませんが、少し別の視点で所感を記します。

言論バトル自体が好きな人は置いておいて、目に入ってしまう情報なら、自分にとって有意義なものとして受け取りたいと誰しもが願うのではないでしょうか。ソーシャルな場で議論されるのだから、せめて建設的な対話になってほしいと私は思います。

今回の件、大前提としてヨシダさんの作品や発言が「文化の多様性」を伝えているのは事実で、受け手の中に肯定も批判も気づきもあるのはその証拠ではないかと考えています。


作品からのメッセージはなにか

作品のメッセージを辿っていくと、ヨシダさんの活動の根幹、問いに行き着きます。おそらく、ヨシダさんの活動の大きな問いはこういうことだと思います。

問:(社会における)人間らしさ、美しさとは。

人間は認知の生き物であり、身を置いている社会や文化、育ってきた環境や経験によって、この問いへの答えは変わってくるでしょう。
少数民族で定着する美意識や食文化に驚かされる経験は、記憶にあるのではないでしょうか。

その認知の違いが、文化の違い、価値観の違いとなります。同質化された感性から外れた美意識は否定・拒否に晒されることも多々あります。

ドラァグ・クイーンたちの美意識を収めたこの作品は、同質化されない美意識を持つことへのエールであり、「自分だけの美意識を磨き体現する」という解なのだと私は感じました。

解:自分だけの美意識を磨き体現すること

※あくまで個人の感想ですよ。


第三者は表現への批判をどう見る?

誰かの表現に全会一致で賛同することは、美意識から言っても解釈から言っても現実的にあり得ません。

批判的評価・言及を行うことがインターネット社会において容易になり、同時にそういった意見を第三者が目にする機会も日常的になりました。
そして、その第三者になったときには議論の表層・枝葉に目が行きがちです。
議論の焦点について何も考えず言及するのは論外として、少し深く考えてみても、正直なところその専門や当事者でもない限り自分との関係を実感することはなかなか無いのではないでしょうか。

そんなときには、現象・枝葉から一度俯瞰して、まず批判の対象の木や森の全体像・根や幹に目を向けてみるといいと思います。俯瞰視点に移すことで、その問題の影響を受けるのは誰でどの程度なのか、という一歩引いた視座で考えることができます。その結果、ことの是非とは別の視点、前向きな中立という第三者のスタンスを得ることにも繋がります。

前向きな中立として考えるポイントは、社会にとってのバランスです。具体的には、

・表現が誰かを侮辱していたり、権利を侵害していたりしていないか。
・批判によってその後の表現が萎縮して、表現の自由が事実上侵害されないか。

という2点をクリアしていれば、第三者視点的には許容範囲ではないかと思っています。無理に是非を判断しなくていいとも言えます。

(今回の個別ケースを100%問題ないと言っているわけではありませんので誤解なきよう。あくまでも一般論としてです。)


まとめ

つまり第三者が大事にすべき視点は、

木を見て森も見る。

ではないかと。

これは、表現する側だけでなく、受け手にも必要な思考ではないかと最近よく思います。

「アート思考」とは、まさにこの視点をいうのではないかとも感じています。
(このあたりはまたnoteします)

ちなみに写真集はDVD付きで8,000円と気軽に買える単価ではないのですが、展示会は800円ですので、ご興味あれば覗いてみてもいいかもしれませんよ。

アートっておもしろいですね。

それではごきげんよう。

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