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空き巣と強盗  その7

 V字の波紋。悠然と泳ぐカルガモ。
 帷子川に、昼の日差しが照り映えていた。
「ヌーボーさん」
小紋に前掛けをした店員が、帷子そばから出て来た。明信は彼女に駆け寄り、「日空の求人に、応募するんだ」と出し抜けに言った。
 礼美は無表情だった。
「まあ、年が年だから、正規雇用とは行かないだろうけども。今、履歴書送って来た」
礼美は、五枚のざるそばを包んだ風呂敷を、明信に手渡した。
 明信は運転が得意で、車輌、船舶、航空機など、たいていの免許を持っていた。飽きっぽい性格で、まとまったカネが入ると仕事をしなくなるので、会社勤めはできなかったが、探せばフリーランスでもそれなりの仕事が見つかった。この日彼は、ネットで『日本空輸』の募集を見つけ、早速応募したのだった。
「もし採用になったら、結婚しませんか?」
礼美はやはり無表情だった。明信は照れ笑いして頭を搔いた。
 長江礼美とは、中学一年生の時、となり合わせの席になり、一目ぼれして以来の間柄だ。
 もっとも、それ以来付き纏っていたわけではない。高校を出てからは互いに異なる方面へ進み、出会うこともなく過ごした。礼美は結婚し、現在、自分の出身中学校に通う娘がいた。夫とは死に別れた。明信は、配達員の仕事をするようになって、彼女と邂逅した。四〇男の萎れた心に、恋の炎が宿ったわけだ。
 礼美は返事をせずに店へ戻った。
 空き巣の仕事のコアタイムは昼だ。朝晩は在宅率が高い。誰も家にいない昼に、忍び込んで仕事をするのだ。
 父親から昼を受け継いだ明信は、顧客件数が一番多かった。しかし、顧客百件と言っても、毎月全て訪問するわけではない。また、訪問して必ず仕事をするわけでもなかった。顧客が警戒してガードを固めてしまったら、継続的な現金の引き出しができなくなる。このため、侵入経路の維持も重要な仕事だった。
 この日、明信は、例の如くざるそばを届けた後、近隣の顧客宅を訪ねた。やはり住宅街の戸建てで、老婆が一人で暮らす家だった。彼女は昼前から近所のスーパーマーケットに出掛け、夕方までそこのイートインスペースで、似たような境遇の老婆たちと過ごす習慣だった。玄関の鍵締めは忘れなかったが、庭に面したガラス戸はいつも開いていた。猫砂の下に積まれたへそくりは一千万。
 無事だった。
 明信は勝手口から出て、近くの児童公園に停めておいたバイクに戻った。スマホにニュースが来ていた。
『ヌーボー・ミーツ、顧客情報流出』
彼はバイクを走らせた。
 ヌーボーとも、空き巣ともおさらばだ。アプリのアカウントを閉鎖すれば、配達員の仕事は来なくなるし、顧客訪問をやめれば、空き巣ではなくなる。
 一晩考えて、彼は明徳に従うことにした。
 生真面目な兄の背中を見て育った彼は、兄に反発して浮ついた生活を選んだが、兄に逆らったことはなかった。むしろ兄を敬愛し、彼を立てることに躊躇はなかった。明徳が教師を目指したことも、性格的な清潔さから、家業と教師の両立をためらったことも、明信には十分理解できた。だから、家業は自分が中心になって受け継ぐ。そう考えていた。
 年の離れた明孝には、愛情以外に何もなかった。彼が生まれた時にはもう中学生で、母親を奪われたと思うほどナイーブではなかったし、彼の優秀さはむしろ自慢の種で、嫉妬は感じなかった。明孝が、明徳の提案に抵抗したことに、彼は驚いた。若い明孝にはやらせたくなかった。それはおそらく、明徳も同じ気持ちだろうと彼は思っていた。接骨院の経営者として地位を固めつつある今、彼は足を洗って、表の稼業で活躍するべきだ。
 一方で、彼が本気で続けたいと思うなら、それも構わない、とも思うのだった。曲がりなりにも八百年以上続いた家業だ。一番若い彼が受け継ぐのは理想的だ。
 明信はこの日、顧客の家から何も盗らず、さらにバイクを走らせた。坂を上り、市民病院近くの介護施設に入った。顔見知りの介護士に挨拶し、入館証を借りて広間を訪れた。
「母さん」
広間の奥の席に、白髪の老婆が、茶の入ったカップを両手に抱えて、ぼんやりテレビを眺めていた。明信は近づいて顔を覗き込んだ。
「母さん、来たよ」
老婆は、眼をくるりと上げて、彼の顔を見た。
「ああ、ノブちゃん」
「そうだよ。ノブだよ」
明信は母、山口弘美の隣に掛けた。
 認知症を発症して久しい。かろうじて息子の顔は見分けられたが、それ以外はみな「どなた?」だ。明徳の妻との折り合いが悪く、父親が死んでからは久しく一人で暮らしていた。三人の子を育てながら、看護師として定年まで勤め、人の世話になることもなかったのだが、寄る年波に勝てず、自宅で倒れているところを明信に発見され、この施設に入れられた。見つかった時には症状が進行していて、宿泊介護が必要なレベルだった。
「オレ、結婚するよ」
「ああ、そう」
「ほら、知ってるだろ? 中学の時に、会わせたことがあるよ。長江礼美ちゃん」
「ああ、そう」
スマホを開いて彼女の写真を見せた。母親は、画面に顔を寄せてしげしげと眺めた。
 見えているのか。見えてもいないのか。
 もともとニヒルな明信だったが、母親のこの状態を見て、柄にもなく人生の無常を感じるようになっていた。
 母ちゃんは、何も知らないのだ。
 仕事にも子育てにも手を抜かず、全力で取り組んだ母。父親の不在を息子たちに気遣わせないよう、自らが父親代わりにもなり、時には体を張って叱り付けた母。結婚して実家から遠のいた明徳に対しても、「男はみんな、あんなものだ」と言って寂しがるそぶりも見せなかった母。
 明信は、彼女が昼食を終えるのを見届けてから、次の顧客宅へ向かった。(つづく)

※その8へはこちらから。
空き巣と強盗  その8|nkd34|note

※その6を見逃した方はこちらから。
空き巣と強盗  その6|nkd34|note

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三回目のお見合い 1/3|nkd34|note


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