売られたヤクザ その22
程川署の刑事部屋に、刑事がひしめき合った。
田代追跡の捜査班が、県警本部から越してきた。四課の津久井以下、腕利きの刑事連がデスクを占拠し、佐原も和田も隅に追いやられた。田代の足跡はほぼ横須賀市内、少なくとも三浦半島を出ないことが判明したので、より近い場所に移動した、とのことだった。
その実、さるやんごとなきお方の、秋のご静養の地が三浦の別荘に決まり、その警備の人員のために、県警本部の場所を譲ったのだった。逃亡者の追跡も大切だが、警備は警察の本業だ。覚醒剤の売人一人見失っても、担当官が叱責される程度で済むが、警備に失敗すれば、それこそ署長以下、名のある幹部全員の首が吹っ飛ぶほどの大事になる。県警上げて、失態を防げ。神奈川県中の警官に威令が行き渡った。
事件捜査の刑事たちは、蚊帳の外に追いやられた。たった一人の逃亡犯のために、現場での聞き込み捜査だけでなく、ネット情報をサーフィンしたり、防犯カメラの映像を照合したりと、地味で地道な作業で消耗していたところにこの騒ぎ。しかも何人か、現場担当の面々が警備に引き抜かれ、戦力ダウンした。おまけに捜査本部の移動だ。捜査官の士気はてきめんに低下した。
「こういう作業は、外注できるといいんですがね」
部下の一人がパソコンから顔を離し、両手で目を擦りながら呟いた。彼は、市内各地から取り寄せた防犯カメラの映像を目視で捜査していた。
「個人情報に関わる作業だ。外注できるわけないだろ」
「体型と人相を見分けるだけだから、アルバイトでもできますよ。外国人労働者だってできますでしょ? 外国人なら、仮に日本人の個人情報に触れても、利用する方法は分からないでしょう」
「バカやろ。持ち出した情報が他の奴の手に渡ったらどうするんだ」
作業の捗らない部下をきつく叱責し、自らパソコンに向かって田代捜査をしていた津久井は、ふいに肩を小突かれた。振り返ると和田刑事が、片頬を吊り上げた奇妙な笑い方で彼を見下ろしていた。
和田は、津久井と佐原を、タンメン屋の隣の喫茶店に誘った。一〇坪程度の狭い店だ。奥のトイレ脇の四人掛けの席に陣取り、津久井はレモンティーを頼んだ。和田は二人を残してトイレに入った。
郵便局の配達員らしい面々が、入り口に近い席で遅い昼食を摂っていた。
「結局、もっとアグレッシブな憲法に変えたいってことだろ?」
太った若い配達員が、甲高い声を張り上げた。
「いつまでもアメリカの言うなりじゃ、なめられるから。これからは、日本から積極的に外国へ働きかける。場合によっては、開戦もあり得る憲法にする、と」
「日本は攻めて来ないと思って、調子に乗っている国もあるからな」
「そうだよ。今の憲法じゃ、なめられる一方なんだよ。竹島とか、北方領土とか、結局、戦争しない国の土地だと思っているから、奴ら、出て行かないんだよ」
「日本固有の領土なんだから、今の憲法でも、竹島も北方領土も、その気になれば取り返せるよ」
「でも、その気にならないジャン。今みたいな弱腰の憲法じゃ、こっちから攻めようなんて気にはならないんだよ。やっぱ、アグレッシブだよ」
「近頃は、みんな憲法談義だな」
津久井は紅茶にレモンを浮かべ、その上に砂糖を降り注いだ。相変わらずだな、と佐原は呆れた。
「そんなに甘くしたら虫歯になるぞ」
「歯は強い方なんだ」
「そろそろ糖尿の怖い年だろ? 砂糖は毒だよ」
「大きなお世話だ」
和田が戻り、佐原の隣に掛けた。
彼はウィンナーコーヒーを一口すすり、唇に泡を乗せた。
「襲名式の件、知っているかな?」
津久井は頭の中にクエッションマークを浮かべた。
「これを見てくれ」
和田は、携帯電話を開いてカタビラ組のサイトを立ち上げた。例の、臨時招集のページが、細かい文字で現れた。
「代替わりの儀式ですか?」
「そうだ」
「ここに、田代が現れると?」
「おそらく。彼は、カタビラ組の幹部だからな」
津久井はスマホを出し、和田と同じサイトを開いた。
「楠美も来るだろう」
「楠美?」
津久井は楠美龍太を知らなかった。特殊詐欺事件は担当ではないのだ。
「一網打尽だ」
「しかし、田代はともかく、楠美はまだ、令状が取れませんよ」
佐原がやや白けた口調で言った。
「拘束して、任意で調べたら?」
津久井は身を乗り出した。
佐原は体を起こして腕組みした。彼はこの日まで、いくら追っても彼の居場所を掴めなかった。帰国していることは分かったが、足跡が杳として現れない。事実上、彼は手詰まりだった。現場スタッフの指揮権があれば多少は違ったかもしれないが、不祥事のために担当を外された彼には、一人の部下も与えられていなかった。県警本部の特殊詐欺追跡班は現在、捜査官を繁華街に派遣して、ボランティアの小中学生と共に啓発活動をしていた。
津久井は、体温が二度ほど上がるような感覚を覚えた。顔には出さなかったが、小躍りしたい気分だった。佐原ほどではないが、彼もまた、手詰まりになるのは時間の問題だった。田代の逃亡は彼の責任ではないが、このまま見つからなければ、彼の評価は著しく下がる。娘がいて、これからカネのかかる年頃だ。ここで失態を演じるわけにはいかなかった。
「牛王神社の宮司にね、呼ばれているんだよ」
「いつですか?」
「なぜですか?」
「まあ、落ち着きなさいって。まずは、彼らの容疑を固めないとね」
和田はまた、コーヒーをすすった。
(つづく)
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