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もう一本

 線路沿いの川に、ひどく靄がかかっていた。橋の上に、ぼんやりと赤提灯が灯っていた。
 三橋光男は飲み足りなかった。
「何で、アイツが」
この日、駅前の洒落たレストランで、女性社員の送別会が開かれた。勤め先の紅一点。イヤ、女性社員は他にもいたし、未婚の者もあったが、今後も残る連中は、いずれも三〇過ぎ、甚だしきは五〇代だ。寿退社の彼女は、新卒採用の二〇代。花も蕾のうら若さ。
 その彼女を、アイツが浚って行くとは。
 光男は、お先真っ暗だった。
 全てにおいて、アイツには一歩及ばない。アイツはK大の出だが、光男はM大。アイツは課長だが、光男は係長。アイツは横浜のみなとみらい地区に高級マンションを買ったが、いまだ光男はまだ寮暮らし。同じ年に採用されて、アイツは花形の営業部に配属されているのに、自分は裏方の総務部。挙句に、憧れの女性社員を奪われた。お先マックラでツラい。悲しい。
これが飲まずにいられるか。
 光男は橋の上の屋台の暖簾をくぐった。赤提灯と言えば、おでんか、焼き鳥か、ラーメンか。何でもいい。とにかく、この気分のまま寮には帰れない。光男は焼酎を頼んだ。
「イラサイ」
目の前で大鍋が煮えていた。何を煮ているのか。店主のオヤジは、短髪にねじり鉢巻きの、ひどく鼻の高い大男。「ナニ、シマショ?」なぜか日本語が片言だ。
「何ができるの?」
「ソーセージ」
ソーセージ? 光男は訝った。
 ホットドッグというのは本来、太くて長いソーセージのことで、本場米国では、屋台メニューの定番だ。日本では、パンの間にソーセージを挟むが、本場では、ソーセージを持つために細長いパンを利用し、それは捨ててもいい。つまり、ホットドッグ屋台は焼いたソーセージを食べさせるためのものだ。
 しかし、赤提灯にソーセージとはこれ如何に。しかも目の前にあるのは煮えたぎった大鍋。ぐつぐつと泡を立て、湯気を吹いている。おでんなら煮崩れているだろう。
「お勧めは?」
「エッグマフィン」
光男は眉をひそめたが、とりあえずそれを頼んだ。店主は足元の棚をごそごそと探って、油紙に包まれたものを差し出した。
 光男は包みを剥がしてそれを齧った。ソーセージパティ、いわゆるソーセージの中身を平たく伸ばしたミートパティと、目玉焼きを挟んだ、粉っぽいイングリッシュ・マフィンのサンド。
「何だ、これ?」
まずくはない。むしろうまい。冷めてはいるが、彼には慣れた味だった。何しろ独身の彼は、ほぼ毎日のように、駅前のバーガー店でこのマフィンを食べているのだ。
「日本の人、マック大好き」
オヤジはニヤリとした。
「お先真っ暗の時、マック食べて、元気百倍」
「いらねーよ!」
彼は包みごとマフィンを丸めて後ろへ抛った。
 川面に落ちる音がした。
「他には?」
些か興奮気味に言った。
「チョリソー」
「辛口か。いいな」
酒は辛口、つまみも辛口。光男は、脳みその芯まで真っ赤に染めたい気分だった。
 オヤジは皿に、細長い、真っ赤なソーセージを乗せて彼の前に置いた。
 齧った。
 喉が、舌が、唇が。火を噴きそうだ。
 まるで唐辛子の塊だ。光男は舌を出して、犬みたいに息をハアハアと吐いた。
「オー、ノー。アー、ユー、オーライ?」
オヤジはコップに焼酎を注ぎ足した。彼は慌ててそれをすすった。
「オー、キャクサン、落ち着いて」
立ち上がった光男の肩を、オヤジは押さえた。
「酒で辛味が増したよ!」
座りながら光男は抗議した。アイシー、アイシー、とオヤジは頷きながら彼を座らせた。
「アナタ、ツラいね。分かる、わかる。アイノー、アイノー。プリーズ、シッダン」
オヤジはにっこり笑った。
「世の中、思うようにいかないときある。アイノー。ツラいときある。ヤー、アイノー。でも、ツラいに一本足すと、ワット、ハプン? オー、グレイト。幸せ。ユー、シー?」
光男は瞳を下げ、ほろりとなった。
 オヤジは、彼の皿にもう一本チョリソーを入れた。
「ますます辛いよ!」

(了)

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