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【コラム】聖書を読むなら霊で読め!アウグスティヌスvs聖書原理主義【連載2回目:2024/05/22】

著者プロフィール:

 抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。

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 アウグスティヌスの「告白」を読んでいる。本書は、マニ教から回心したアウグスティヌスを通じて、カトリック信仰を知る事が出来る。無論、当時のカトリックがどのような教会であったかも伺う事が出来る。

 現代のキリスト教徒の中でも、特に福音派は、旧約聖書やパウロの言葉を引いて、同性愛を罪と主張したり、創造論を主張したりしている。このような考えを持つ理由としては、彼らが聖書を文字通り解釈する立場に立っている事が上げられる。それに対して、アウグスティヌスはこう述べる。

旧約聖書のいくつかの章句が、しばしば比喩的に解決されるのを聞いて、とくにそのように思った。わたしはそれを文字通りに受け取って、殺されていたのである。そこで、旧約聖書の多くの個所が「霊によって」解き明かされたので、わたしは少なくとも律法や預言者を嫌悪し、嘲笑する人びとに反対することはけっしてできないと信じこんでいた、わたしの絶望を咎めるようになった。

(「告白 上」岩波文庫,p160)

 さて、ここで、聖書解釈について考えてみたい。といっても、私は聖書原理主義を取らず、福音の精神にのみ従う立場である。それは何故か。それは、言うまでもなく、「現代科学を参照もせず、吟味もせず、自分勝手に進化論を否定するような考えは、明らかに間違っているから」である。しかし、これはアウグスティヌスの当時の感覚としても同じような考えがあったと思う。

 即ち、アウグスティヌス自身、旧約聖書の文言に「殺されて」いたのである。即ち、旧約の、あまりにも現代(当時)に適用出来ない言説を認めなければいけないが故に、信仰から遠ざかっていたのだ。少し論理的に考えてみよう。聖書原理主義説についてである。

 聖書原理主義者はこのような考えを取る。聖書は、聖霊によって書かれた神の書物であって、よって一点の誤りもない。ここで、幾つか突っ込みが入る。①聖霊によって書かれた書物であるなら、聖霊によって読み取られるべきではないか②聖霊によって書かれた、とあるが、聖霊はキリストを信じた人に宿る。ではなぜ、他の信仰者の書物と区別されるのか、それは恣意的な基準ではないのか③明白に、現代においては適用出来そうもない箇所についてはどうするのか、正しいと言い張るのか

 聖書を書くに際しては、聖霊が書いたと言い張り、聖書執筆者の聖霊が如何に優れているかという前提でいるのに、それを読み取る側の聖霊は全く信頼しないのは、端的に言って矛盾ではないか。よって、私は、カトリック及び、アウグスティヌスを支持したい。あまりに理性的に問題のある箇所は、霊によって読み取るべきだ。そうでなければ、エホバの証人のように反社会性を持つ事さえ起きるだろう。

 そして、そのような問題のある教義は、アウグスティヌスがそうだったように、人を福音から遠ざける。僕は、キリスト者と名乗れるかも怪しいレベルの人間なので、別に遠ざかっている人を見たところで、平均的な日本人という風にしか思わない。しかし、彼らにとっては、それでいいのか?という話になる。ということで、穏健な話で無くなってきた所で、この記事を雑に放り投げよう。




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