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今、このキリスト信仰者が熱い!

著者プロフィール:
 抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。
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 僕のキリスト教思想は、主に、内村鑑三、アウグスティヌス、ルター、エックハルト、加藤隆の著作をベースに構成されている。内村鑑三からは無教会主義を、アウグスティヌスからは神学を、ルターから福音主義を、エックハルトからは神秘主義を、加藤隆からは不在の神と、信仰を持ちつつ論理的思考を捨てない事を、それぞれ学んだ。よって、最も恐ろしいバーサーカー的なキリスト信仰者が完成した。キリスト教の宗教性を無教会でほぼ排し、弁神論に長け、聖書無謬説に反対しつつ福音主義(ルター)であり、且つ聖書を象徴解釈し、この世に何かを遺す為に、論理的思考をフル活用する。

 徹底的に主張しているのは、聖書はアナロジー以上のものだが、アナロジー的に理解している以上ではないということ。イエスの復活を「信じます」とは、具体的にどういう事か。いくら、死者の復活を信じている、と自己認識したところで、その意味は明快でない。ここで信じているのは、神の前には地上の秩序は全て/一部が無意味化されるということだ。しかし、これを他の領域に適用して思考すると、それは問題である。なぜ、この思考法は許されるのか?それは、それ自体が持つ意味が、希望に集約されるからである。これは、主意主義的な解釈である。主知主義、主意主義、主情主義、全ての解釈が同時に成立するのが、三位一体的な思考法である。

 三つの立場に立って考えてみよう。イエスの復活を、主知主義的に解釈すると、これは、自然の斉一生は仮定に過ぎないので、死者の復活は有り得た、という立場に立つものである。ルール(無視)に基づく復活の肯定である。主意主義的に解釈すると、復活の有無が問題ではなく、それがもたらすメッセージが、イエスの勝利や神の国の証明で、希望そのものな事に意味がある。主情主義的に解釈すると、私はそれを信じて、私の中で有益である。よって、私の中で復活はある、となる。しかし、これら3つの立場の問題は、どれも信仰者内部の「内輪ネタ」に過ぎない事である。なぜなら、イエスの復活によって導かれる結論は、端的に求められていないからだ。

 それより、非信仰者との対話において、重要視するべきなのは、以下の点である。一つは、イエスが全く弁論せず、十字架に処された事だ。何も訴えず、ただ裁かれるのを実践した事である。これはイエスの教えと、彼の行動が決定的に一致している一つの証拠である。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:42)とある。イエスは、彼らが望むなら、命まで与えた。これが彼を聖人と認めさせる決定的な根拠である。

 イエスの教えは究極的には、「神を愛し、隣人を愛する」に帰結する。隣人愛とは、一定ではなく、明快な答えがあるものではない。怒りは悪だと言うが、愛を持って怒る事もあるのは、旧約聖書を読めば分かるだろう。しかし、何かを愛するには、愛され、愛がどういうものなのかを知っておかなければいけない。それを理解していない人間は、何ら非信仰者に対しての有効な説得材料を持たない。

 今から演繹してみよう。理性的で、よって信仰しない人間に対してである。問題なのは、論理的、理性的である事は、何の為であるかということだ。それは、真理に辿り着く事だ。真理に辿り着きたいのは何故か。生まれてきたこの世界を知りたいからだ。愛している相手の事はもっと知りたい。この世界を我々は愛しているのだ。しかし、それは、この世が我々を愛しているからだ。実の所、この世は神の愛によって作られている。それに気付いた時、全てのものへの愛に満たされる。これは目的論的な演繹に過ぎないが、しかし、これこそが真理である。

 この世はサタンが支配している、とキリスト者が言う時、彼らは何を想定しているのだろうか。草木、花、鳥、果実、といった自然的なものだけに留まらず、ほぼ無限に存在する膨大な書物や、人類が開発した偉大なテクノロジー、全て愛で出来ている。無論、核兵器のような憎しみで出来たものもある。しかし、憎しむものは人間であり、それはサタンの仕業であるかもしれないが、この世は愛で出来ている。その愛を感じ取る方が優先事項である。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(ヨハネ2:15)は、単に世俗的な悪を愛するなという事だ。

 むしろ、キリスト者の真髄は、この世界を信頼し、もっと良くなると信じ、何を遺していけるかという事に尽きる。こういう立場に立たないキリスト者は、ニーチェによるキリスト教批判を乗り越えられない。それは、死後に自ら達のみ天国に行ければいいと、この世の事は放棄し、もしくは、この世の人に擦り付け、目の前の問題から逃避しているだけである。イエスは、街に繰り出て、教えを解き、この世において人々と実存的な関わりをした。パリサイ派など対立した相手とは論争を交わした。どちらによ、この世のルールを無視した上で、独善的な主張を繰り広げるのはナンセンスである。端的に言えば、私はハッピーである、キリスト者だからだ、と言えないような人々は、究極的にキリスト者ではない。

 宗教は人を幸せにするものである。それは、カルトの倒錯的、自己正当化的幸福ではない。キリストを用いた自己洗脳的幸福でもない。キリスト的な世界解釈を理解する事によって、日常に溢れる愛を知り、満たされる事である。そして、自らが満たされる事によって、その幸せを他人にも分けてあげる事である。


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