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【書評】Xの煽りポストを見て、気付いたら内村鑑三を読んでいた│『ヨブ記講演』内村鑑三【2023/09/29】

抜こう作用です。

8月の下旬、楽しくXのタイムラインをスクロールしていると、このようなポストが流れてきた。

この人の為に、勝手に誤字を訂正しておくと、進学的ではなく、神学的、である。

さて、僕はこのようなポストはどうかと思う。
仮に、神学的には初歩的な問いなのだとしても、そもそも純粋な人間感情として当然の問いを悪しきもののように言うのは、彼らが信ずる神のような包容力とは程遠いものだと思うからである。
とはいえ、僕はヨブ記を未読だった為、この投稿を見て一読してみたのである。

一読してみた結果、神がいるならなぜ悪は存在するのかの問に対しては、ヨブ記を読むよりも、物事は相対によって生じる、とか言った方が余程説明が着くような気がするのだが。
ともかくとして、ヨブ記は確かに一読の価値ありなのだが、ヨブ記で示されているのは、神の大いなる目的の為に、意味がないものにも意味があるのだといい、悪も善に転ずるのだ、という事ではないかと思うのである。

そもそも、悪がなぜ存在するのかを問うのは、世界はなぜ存在するのかを問うようなものである。
しかし、父なる神は「存在」なのである。(「わたしは,『わたしはある。』という者である。(出エジプト3:14)」)
むしろ、"存在"が起点であり、主格なのだと僕は思う。
神を都合のいい妄想的存在に押し込めるのではなく、絶対者にして全知全能という、"究極"そのものだと知覚すれば、その存在はむしろ我々が確かに認識していて、「知っている」ものなのだ。
こうした面から、神が物質的世界に存在しない事などくだらない事だと理解する事が出来る。
更に言うと、僕らが認識していない世界は存在しないのかのような認知も、傲慢さから来るものだと思うのである。

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ヨブ記講演 (岩波文庫)

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評価 8(10)

さて、ある時図書館に足を運んで、いつものように岩波文庫の棚を物色していたら、『ヨブ記講演』という本を見つけた。
内村鑑三氏に対しては、一読どこかでその名を聞いた事があるぐらいで、無教会主義の人間だということぐらいしか知らないのであるが、ひとまず一読してみたかった存在なので、何気に本を借りて、結構な時間をかけて読み進めた次第である。

そこで論じられていたのは、教条主義的な神学者を批判し、人間の根本的な愛を尊ぶ精神である。
ヨブ記では、三人の友人が、ヨブを悪人としたり、子を罪人としたりして、誤った考えに基き悔い改めさせようとする。
しかし、これらは現実に起こる事とは違ってくるのである。
実際には、この世は全てそのような理想的な状態ではない。
神の義が地上に完全に行われているなら、そこは神の国であり、地上ではない。
しかし、だからこそ神を求めるのである。

神は義を尊ぶ。
それは、人間の義の究極としての神の存在の規定であるという、そういった認識からでも理解する事が出来る。
しかし、それと共に、神は善なるものの究極である。
であるからして、単に義だけの存在ではなく、人間が尊ぶ、誤ちを犯したものを許す、愛の神でもあるのだ。
そこで、我々は、この絶対主なる神に、安心して跪ける。
もし、神が義のみの神であるなら、我々は全て滅びるだろう。
しかし、愛であり慈悲の神でもあるので、我々は誰もが神に身を委ねる事が出来るのだ。

教条主義な信者は、神を自分の論理を絶対化する為の道具として貶しめている、と本書は指摘する。
そこには、一方的な基準で人を断罪する、神ではない神が論じられているのだが、しかし、実際には、神はこの世の善であり、人の憎しみから来る断罪を嬉々として行う存在ではないのだ。

途中から、文章を書いていて、本書の思想なのか私の思想なのか分からなくなってくるぐらいには、本書の思想が私のものと一致していた。
神を信じるというのは、この世の善なるものを求める純粋な心の、必然なのである。





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