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第2章 本屋の売り物

「本」という言葉は書籍だけでなく、根元、真実、という意味もある。それは、一つ真っ直ぐに突き進んでいるさまをその奥底に持っている。だから、”本”屋というのは「真実で、根源で、率直なもの」を売っているのである。僕はこれを確かだと思っている。

なんで今独立系書店が増えているんですかね、と聞かれれば僕は今のように返すだろう。別に社会的トレンドがあるとは思わない。それは表面的な現象であって、”本”への渇望が血のように流れているにすぎない。その末端に、今増えつつある本屋があるだけだ。紙の本に含まれているのは情報だけというと語弊があって、それを作った人々なりの真実、木の幹が一本、スパッと通っているのだ。世の中が不安定であればあるほど、がっしりとした大木の幹への求心性は高まっていくのである。うろに集まるわたしたちを、大きく広がった枝葉で守ってくれる。こういうものを、私たちは転じて本と読んでいるのだ。

大学生という時期に、コロナが共にあるというのは一種の運命とさえ思える。サークルはうまくいかない。堂々と同じ食卓を囲めない。こういうきつさは確かにあって、大人は「本当に(また”本”がでてきた)かわいそうだねぇ」と同情してくれる。だがそれ以外の面でそれなりにうまく楽しんでるのも事実である。だってコロナ以前の大学生を知らないんだ。自分の生活こそよっぽどリアリティがあるというものである。それを、自分から引き離して、「こんなはずじゃなかったのに」とぼやく方が非現実的だ。できないことはできないし、柔軟に認めないといけない。だからこそ、揺らぐことのない”本”がほしい、提供したいという動きがでてくるのはある意味当然のことなのだ。

目の前にある本が”本”かどうかは手にとって確かめるのが一番いい手段ゆえ、悲しいことに、感染を恐れて対面式の本屋は客足が遠のき、AからZまで揃う大型書店に蹂躙されている。みんながみんな自身を見つめ直す絶好の機会なのに、街の本屋はその恩恵に与れていない。皮肉なことである。もう普通に本を売るカタギはできないのかもしれねぇ。兄貴、助けてくれよ。

それでも本屋さんは増える。福岡県内だけでも、例えば本と羊やうなぎBOOKS、テントセンブックス、本屋アルゼンチンなどなど。なんでと聞かれると開業した本人さえ首をひねるくらいだから(ごめんなさいここは完全に妄想です。確固たる信念をお持ちの店主様方はお叱りください)、やっぱり”本”に傾きたい欲求が、全体として高まっているとしか思えないのである。

僕もその一人だ。コロナはもちろん、将来への不安も著しい。何よりも自分を騙すのが最も苦手なのだ。ありもしない願望や半端な承認欲求を追いかけるほど器用ではない。今の僕が、何よりもほしいのは”本”である。僕の本屋は、それを見つける旅である。経費で読めるしちょうどいいね。

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