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努力には「量」と「方向」がある。それでも成果は約束されない、努力の本質。

世の中努力量の話はよく出てくると思うのですが、私は努力には「量」と「方向」があると思っています。

努力で成果が約束されることは有りませんが、努力なしに得られるものなどたかが知れています。なにかしら欲しい物があるか、避けたい状況があるなら努力すべきだし、その結果望んだ成果とは違う形であったとしても自分を裏切ることにはならないからです。
ただし、努力には「量」と「方向」が存在しており、これを間違えると努力の意味がなくなりかねない事態になります。

「努力しても何もできるようにならない」
「努力しても意味がない」

って言ってる人の多くは、だいたいこの2つのどちらかの考え方がかけています。それで殆ど解決すると言っても過言ではありません。(と思っています、私は!)

1.努力の方向

まず、努力の「方向」の話をしましょう。
よくある話なんですが下記の画像をを見ながら聞いてください。

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例えばあなたが今現在東京にいて、「北海道に行きたい」と思ったとしましょう。当然進むべき方向は「北」、東北に向けてです。これがもし「西」に向けて旅立ってしまえば、北海道に行くのと同じ時間、お金をかけたとしても、永遠に北海道にはつきません。
四国あたりについて「あれ?」と思った頃には時既に遅し。

この話すると「当たり前じゃん」って言う人がいますけど、この当たり前が日常生活になった途端わからなくなるのが人間です。
例えばこの話、私達が「当たり前じゃん」って思えるのは、上から見た日本地図を知ってるからですよね?要は全体像が見えているからです。
でも、日常生活の中で目標までの全体像が明確に見えてることなんてありますか?ほとんどないと思います。
これが道のりまで明確に見えてれば迷うことも、不安に思うこともないんです。ただ歩いてて道に迷うレベルであれば、地図が有り、スマホがあり、カーナビがあるこの時代に、目的地につかないことなどそうそうないでしょう。でも、仕事やプライベート、人生の目指すべき場所にむかう中に、カーナビなどついてません。カーナビどころか地図も道路標識もないわけです。だから「あれ?こっちで正しかったんだっけ?」って不安になったりするんです。
努力の方向は、それぐらい把握が難しいものとも言えます

じゃあ自分の「努力の方向」が合っているのかどうしたらわかるのか?
それは自分より全体像が見えてる人に修正してもらうしか無いと私は思っています。見たこともない道の全体像(上から見た地図)は、自分にはわからないので、同じ道をたどってきた経験者や、視座が自分より高く把握領域が大きい人と話をして修正することが必要です。
例えば山道。山を登り始めるとき、下から登るときには目的地も道の全容も見えませんよね。でもこれが頂上までついて山の上から見下ろすと、町並みまですっかり見通せるわけです。
巨大迷路も同じで、自分が迷路の中にいたらどこをどう行けば出口にたどり着くか見えませんよね?でも、これ上から見てる人には明確なわけですよ。

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そういった人の話を聞く素直さと、努力の方向について考える認識があるかどうかは、成果を出す上で非常に重要な条件だと言えます。

また、方向の話をするときに大事な前提として、
① 現在地を把握すること
② 目的地を明確にすること

の2つがあります。

これ、「② 目的地を明確にすること」ってあらゆる自己啓発本やマネジメント本や目標達成のスキル本とかほんと色んな所に載ってることなので、言われなくても知ってると思いますが、盲点なのは「① 現在地を把握すること」です。
スマホやカーナビで道に迷う人が減ったのは、まさしくこの「現在地」の把握が的確にできるからです。
先程の北海道に行く話も、そもそも前提として「東京にいる」ということがわかっているから「北海道に行くのに北に向かう」という答えが出せますが、これがもしアメリカとか北極とかロシアとかにいたら全然話が変わってきます。
実際、目標について考えることに多くの時間を費やして、現在地を認識することが疎かになってることが多くあります。現在地がわからないということは、「何をどう努力すればいいのか」がわからないということです
例えば、成長したいと思ったときにも、自分の現状の能力を正しく把握できないと、目的までどの程度努力が必要で、なんの能力を身につければいいのかということを計測できないので、結局成長につながらないことがあります。

方向性を間違える要因として、現在地が正しく把握できていないことがあるということも認識しておきましょう。

2.努力の量

次に、「努力の量」の話です。
こちらも画像を用意しました。

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例えば先ほどと同じように「北海道に行きたい」と思ったとして、その旅費を稼がなければいけないとしましょう。
Aさんは自分なりに頑張って、シフトを増やしてバイトして旅費をためますが、結局茨城まで行く旅費しか稼げなかったとします。
一方Bさんは、北海道に行くために必要な旅費と、そのために必要な行動量を考え、今のバイトを継続しながら更に掛け持ちでバイトしてお金をためます。
Aさんは目的を達成するための努力量ではなく、「自分が頑張ったかどうか」で努力の基準を決めています。つまり、目的地に到達するためには、Asさんの努力の基準値が低すぎて、目的を達成することができないのです。一方Bさんは、目的を達成するための努力量を基準に動いています。どちらかがサボったというわけではなく、二人とも頑張ったとしても、努力の基準値が違えば努力の量が違うので、違う結果が出るということです。

努力の「量」において、自分が頑張ったかどうかは関係ありません。
目的地に到達するのに十分な努力量だったかどうかでしか無いのです。

もちろん自分なりに頑張ったかどうかは自分自身の納得感にはつながるのですが、成長を望むなら、成果を生む努力量を自分の当たり前にすべきです。
「自分なりに頑張った」で成果が得られないのはアタリマエのこと。そもそもその時点での努力の基準値が低すぎるからです。

とはいえ、努力好きな人間って私はあんまりあったことがありません。私は自他共認めるめんどくさがりやですし、「努力?ナニソレオイシイノ?」みたいな人間でした。笑
ただ、そうやって自分の努力の基準値を甘やかし続けると、本当に何もかも手に入らず自分に失望することになり、人生つまらなくなります。自分がどれほど中身がスカスカかという悲しさに襲われるからです。(経験者は語る。)
「自分なりに頑張った」というのを当たり前の基準値におかず、「目的地に到達する努力量」を自分の当たり前の基準値にするのが重要なのです。つまり、成果を出せるかどうかは、自分にとっての当たり前の努力基準を、どれだけ上にひきあげあられるのかにかかっています。

で、「努力」の話をしてると必ずといっていいほど出てくる「努力したって成果が出るとは限らないじゃないか」という疑問。
そりゃそうだろって思います。超絶普通のことだし当然です。
でも、これだけは自信を持って言えますが、努力して「何も得られなかった人」はいないです。
私がしてきた殆どの努力も、おそらく当初願っていた成果には結びついていないと思います。しかし、副産物的に多くの資産を私にもたらしています。予期しない成果が必ず出てくるからです。
それは、努力しない人には一生かかっても手に入らないもので、永遠に得られることはないでしょう。

正しい方向に向けて、目的地に達する量の努力をすること。
それが「努力」の本質です。

方向が間違っていればそれは「努力」ではないし、量が足りなければそれも「努力」じゃありません。
そんなもんで何かを得ようとするなんて傲慢です。努力してる人に失礼です。

努力したからと言って、それでも成果は約束されないけれど。
それでも、必ず自分にとって利益のある資産になります。

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