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有事を生きる人間の姿―ヴィアン『うたかたの日々』、カミュ『ペスト』

「死」の文学入門~『「死」の哲学入門』スピンアウト編 第7回
内藤理恵子(哲学者、宗教学者)

『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』著者、内藤理恵子氏の寄稿によるスピンアウト企画「『死』の文学入門」。第7回はボリス・ヴィアン『うたかたの日』とカミュ『ペスト』を取り上げます。彼らは不条理な疫病と死を、どのようにとらえたのでしょうか。
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なぜ『うたかたの日々』なのか

2020年4月現在、新型コロナウイルス肺炎の感染拡大により世界中が危機の渦中にあります。フランスの作家アルベール・カミュの小説『ペスト』(アルジェリアの街がペストでパンデミックになる架空の物語)がリバイバルしていますが、ここでは少し異なった視点から今回のコロナ禍を考えるべく、ボリス・ヴィアンの代表作『うたかたの日々』にふれてみたいと思います。

<フランスの小説家。ボリス・ヴィアン(1920〜1959)>

ヴィアン

イラスト:内藤理恵子(以下同)

『うたかたの日々』あらすじ

主人公コランは22歳の富裕層の青年で、十分に食べていける資産を持っているため、働いていません。コランはニコラという名前の男性料理人を雇い、贅沢で優雅な独身生活を送っていました。

コランにはシックという名前の友人(職業はエンジニア)がいます。シックは哲学者パルトル(実在の哲学者サルトルのパロディとして物語に登場します)に正気の沙汰とは思えないほど傾倒しています。シックはパルトルの講演会で、コランの料理人ニコラの姪アリーズと出会い、恋に落ちます。

コランは自分も恋愛がしたいと思い、パーティでクロエという美しい女性に出会います。コランとクロエはすぐに恋人同士になり、結婚までとんとん拍子に進みます。彼らの日々は享楽と浪費に彩られ、飽くことがありませんでした。

また、コランは金持ちというだけではなく友達思いでもあり、シックが恋人のアリーズ(ニコラの姪)と結婚できるよう、結婚資金のための大金をそのままプレゼントしてしまうほどでした。しかし、シックはパルトルの書籍と関連グッズの収集に夢中で、その大金を自分のコレクションに流用してしまいます。シックもまた浪費の虜(とりこ)なのでした。

コランは恋愛至上主義のため、恋人(妻)のために惜しげもなく浪費しますが、シックはパルトル至上主義のため、お金をこの哲学者のために湯水の如く浪費します。シックにとっては、恋人アリーズよりもパルトルのコレクションを増やすことが至上命題なのです。

しかし、彼らの贅沢な日々は継続しませんでした。クロエは肺の病(のちに、肺の中に睡蓮が寄生する重大な病であることが判明します。これは小説内の架空の病で、最初は軽い発作から始まり、買い物などに出かけることができるが、急激に肺が侵されます。新型コロナウイルス肺炎の症状に似た面があります)にかかり死に至ります。コランはクロエの治療費のために財産を使い果たし、一介の労働者として働かざるを得なくなります。

他方、アリーズのほうはシックの浪費癖を悲観し、なんと、哲学者パルトルを殺害してしまうのです。アリーズは、パルトルのために散財を続けるシックがそのうち人生を破綻させてしまうと悲観し、その根源となるパルトルを行きつけのカフェで「心臓抜き(小説内の架空の武器)」を使って殺してしまうのです。シックが熱狂的に収集している書籍を生産するパルトルを殺し、本屋を燃やしてしまえば、シックの浪費は終わると、アリーズは考えたのです。アリーズはシックを救いたかっただけなのでした。

アリーズがパルトルを襲撃したのと同じタイミングで、シックは警察に撃たれて死亡します。税金の滞納による財産差し押さえの最中、パルトル関係の蔵書を守ろうとした際の出来事でした。アリーズも、パルトル襲撃後に本屋で焼死してしまうため、結局のところ、生き残ったのはコランと料理人ニコラだけですが、コランも「精神的な死」ともいえる状態(岸辺で過ごし、睡蓮が水面まできて自分を殺してくれるのを待つ、もしくは写真を眺めているだけの生活。食事もとらず、緩慢な自殺未遂を繰り返しているような状態)になってしまいます。

以上が『うたかたの日々』のあらすじです。自己形成小説(教養小説)のジャンルに属する作品は数多くありますが、『うたかたの日々』は自己崩壊小説ともいえる、ただただ破壊に向かう物語です。富裕層のカップルが財産を失ない、健康を失ない、自尊心を失ない、友人を失ない、信仰を失なうこの小説は、現在(コロナ禍にある)の状況下において、ある種、象徴的なインパクトを持ちます。

友人シックの死

『うたかたの日々』における登場人物たちの死は、それぞれ何を意味するのでしょうか。まずはサブストーリー(シックの死)から考えましょう。

シックはそもそも、世界を席巻していたパルトル――サルトルのあからさまパロディなので、ここからはサルトルとして語ります――サルトルの実存主義に惹かれていたのだと思います。しかし、実存主義者になるのではなく、コレクターになったわけです。

神なき時代のヒューマニズムとして、己の生き方を己で決める「自由」を盾に、人間中心主義を打ち出したサルトルの書籍や関連グッズが、そのコレクター自身から自由を奪い人生を破壊していくというこのサブストーリーは、作家ボリス・ヴィアンが時代の寵児サルトルに突き付けた“挑戦状”ともいえます。サルトルの実存主義なんて、実際には何の効力も持たないのではないかという懐疑を、ヴィアンはこのサブストーリーを通じて投げかけたのでしょう。ヴィアンのこの予感は、のちに的中します。というのも、サルトルは最晩年に彼自身の実存主義を捨て、神への態度を一変しつつ(神の実在を語り、運命論者に転向します)、死に関しては思考停止のまま死亡したからです(『死の哲学入門』p171〜184)。

パルトル(サルトル)の死

このようなサルトルの矛盾を突けたのは、サルトルの取り巻きの一人であったヴィアンの人間観察の成果でもあったと思います。パルトルの描写は、そのまま哲学者サルトルの執筆スタイルをなぞったもののようです。

パルトルは毎日カフェで過ごし、彼と同じように飲んだり書いたりしにくる連中と一緒に飲んだり書いたりする。彼らは海の彼方から届いたお茶だのソフトアルコールだのを飲み、そのおかげで自分たちが何を書いているのか考えずにすむ。店には大勢の客の出入りがあり、そのおかげでアイデアが底のほうからかきまわされ、一つ二つ収穫もあるし、余計なものだって全部除外してはいけない、少しばかりのアイデアに余計なものを少し加えて水増しするのだ。そうすれば人々にとって飲みやすくなる。
(ヴィアン『うたかたの日々』野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2013年、Kindle版)

サルトルは「自由は本質をもたない。自由は、いかなる論理的な必然性にも従わない」(サルトル『存在と無 Ⅲ』松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫、2008年、p31)と述べますが、とすれば、他者がどのような非論理的な自由を振りかざしてサルトルを襲撃しても、サルトルはそれを甘受しなければならないと解釈することもできます。絶対的自由を掲げるカリスマ的な実存主義者を、その信奉者が絶対的自由を盾に殺してしまう『うたかたの日々』のサブストーリーは、サルトルの実存主義批判として機能します。

以下は、アリーズとパルトルの会話です。

「ご説明します。シックはお金を全部、あなたの作品を買うのに使ってしまうのです。そしてもうお金はありません」
「別のものを買えばいいのに。わたしは自分の本など買ったことがありませんよ」
「彼はあなたのなさっていることが好きなんです」
「それはその人の権利でしょう。それは彼の選択したことだ」
「彼は深入りしすぎたんです。わたしもわたしの選択をしましたが、でもいまでは自由になってしまったのです。なぜなら彼はもう、わたしが一緒に暮らすことを望んでいないからです。そこでわたしは、あなたを殺そうと思います。だってあなたは刊行を延期してくださらないのですから」
「そんなことをされたらわたしは実存の手段を失ってしまう」
ジャン=ソールはいった。
「もしわたしが死んだら、どうやって印税を手にすることができるんです?」 
(同)
(※注:ジャン=ソールとはパルトルのこと。サルトルのフルネームはジャン=ポール・サルトル)

主人公コランの雇われ料理人ニコラもパルトルの影響を受けていて、アンガジュマン(政治・社会参加)についての奉公人哲学サークルの会長を務めています。当時、サルトルの思想が若い労働者にも多大な影響力を持っていたという事実を、小説に取り込んでいるのです。

その一方で、ニコラの姪アリーズはパルトルを襲撃し、彼から本音を聞き出しますが(「死んだら、どうやって印税を手にすることができるんです?」)、これらを対照的に描くことで、ヴィアンはサルトルの思想が矛盾を孕んでいることを告発したのだと思います。

先にも触れたように、ヴィアンとサルトルには実際に交流がありました。サルトルはヴィアンの才能を認めていて、『うたかたの日々』のストーリーが自身を批判するものであることをわかったうえで、39歳で早世したヴィアンのために、この作品を世に広めました。

クロエの死

ヒロインのクロエの死は、主人公コランの「労働」と並行して考えなければならないと思います。すでに「あらすじ」で述べた通り、クロエの病状が悪化するにつれて、その医療費がコランに重くのしかかります。コランは遺産を使い果たし、富裕階級から労働者階級へと“転落”してしまいます。クロエは肺の病で衰弱の一途をたどり、コランは慣れない労働で心身を消耗します。

彼らが富裕だった頃、「労働」は彼らの視野の外にありました。買い物やパーティ、スケート、カクテルが飛び出す特殊なカラクリのピアノの演奏など、ゴージャスで気ままな日々を謳歌していた彼らにとって、労働者の暮らしや日常など視野にありません。新婚旅行で労働者を目撃した時も、クロエは「なぜ彼らは働くのか」と訝ります。贅沢な食べ物も衣服も、消費するばかりで、それらを誰が生産しているかに思いの及ばないクロエは、労働をバカにしています。ところが、クロエは新婚旅行中に肺の病に感染し、コランは治療費を稼ぐために働かざるを得なくなったわけです。経験のないコランにできる仕事は少なく、体温で銃身を育てる仕事(身を削って商品を製作することのたとえ)と、これから起こる不幸を本人に知らせに行く仕事(つらい感情労働)でいくばくかの賃金を得ます(クロエの架空の病気と同様に、こうした空想的な “職業”も小説的な道具立てです)。クロエのために働くコランは、まさに、新婚旅行中にクロエが見た労働者の姿そのものなのでした。

遊び暮らしていたコランとクロエは労働(生産)と消費の構造から超越したかのような特権階級(もちろん実際には「超越」しているのではなくて、「寄生」していたのですが)でしたが、クロエの長引く病によって資金が尽き果てたコランは、最終的にクロエの葬式代も満足に払えませんでした。

クロエの最期に神は寝ぼけたまま

クロエの棺(ひつぎ)は投げ捨てられるように運ばれ、彼女の人生は幕を閉じました。

クロエの葬儀で、コランが神(イエス・キリストの像)に問いかけるシーンでは、罪のないクロエが死んだことについて、コランがイエスに疑問を呈します。ここでイエスは語り出し(コランの心の中の出来事)、「クロエの死に宗教は何も関係ない」と責任逃れをします。この作品での神は、寝ぼけているような存在として描かれており、結局、誰も救うことはありません。コランは食事もとらず、岸辺で無為な生活を送るようになります。彼も時を経ずして死んでいくことを、暗にほのめかしてこの物語は終わります。

クロエの死は宗教的にも救いはなく、その死に意義を見出すことができません。サブストーリー(シックとアリーズの物語)でも、実存主義思想が擬似宗教(パルトルへの個人崇拝)のように描かれていますが、パルトルもまた誰も救いはしませんでした。

カミュの『ペスト』では、登場人物のパヌルー神父の特異な症状(彼だけがペストのようでペストではないような不思議な経過をたどり死に至る)に神の存在がほのめかされてはいるものの、最終的には作中で神の存在が否定されます。ペストが過ぎ去ったあと、「人間を越えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに目を向けていた人々全てに対して、答えはついに来なかった」(同)と、物語の語り手の医師リウーが総括していることからもそれがわかります。ここでの「答え」とは、神の実在を確信できるような奇跡や救いのことです。神のいない世界で、不条理な疫病という厄災に対峙する……それがカミュの『ペスト』とヴィアンの『うたかたの日々』に共通するテーマといえるかもしれません。 

神の存在を信じることへの葛藤

このように『うたかたの日々』と『ペスト』には、大きくは共通するテーマがありますが、細かな点では『ペスト』にあって『うたかたの日々』にないものがあります。それは信仰への葛藤です。

『うたかたの日々』では、浪費の日々にあって神の存在は顧みられず、転じてクロエの葬儀のシーンでも、まるで漫才のようなイエスとコランの掛け合いが見られるだけで、失望はあるけれども信仰への葛藤は見られないのです。

対して『ペスト』では、先に見たように神の存在に対する葛藤が大きなテーマになっていて、それはパヌルー神父の口を借りて語られます。『ペスト』は、オムニバス形式で人物が登場し、それぞれが厄災に立ち向かっていく構成になっていますが、そのうちの一つがパヌルー神父のエピソードなのです。

ペスト禍にあるアルジェリアの街オランで、人々を導く立場にある神父の狂信的な態度がペスト禍によって変わっていくことに、この物語の核心があります。当初は「神が人を愛する時間を長くするためにペストという災禍をなすがままにしているに違いない」という論理を振りかざしていた神父は、最終的に、市民には神を信じるか信じないかの二つの選択肢を用意するようになります。神父自身は信仰を守って、先述したような経過を経て死に至りますが、彼が神(信仰)に対する絶対主義的な態度をとることをやめた点にこそ、最も重要な『ペスト』の問い掛けがあるのです。

カミュは、宗教や主義・主張の絶対的権威によって、人々が選択の自由を奪われることを嫌いました。宗教に対してだけではなく、サルトルの実存主義も含めた思想に対してもそうでした。カミュは右派でもなく、左派でもない中道を主張し、サルトルと正面衝突しています。ヴィアンもカミュも、時代の寵児サルトルに、それぞれのやり方で異論を唱えていたのです。

ただし先に見た通り、ヴィアンとカミュでは不条理の捉え方が異なります。ヴィアンは、ただただなす術もなくそれに負けてしまう物語を書きましたが、負けていく様子をシュルレアリスムの絵画のように描くことで、詩的な美をそこに見出しています。カミュは、不条理に対して勝つわけでも、負けるわけでもなく、不条理に立ち向かう姿にこそ人間の美しさを見出すという姿勢を貫きます。

カミュの不条理に対する態度とコロナ禍の日本

カミュの不条理への考察は、哲学エッセイ「シーシュポスの神話」で、より明確に描かれています。人間の生とは、転がり落ちた岩を山頂に押し上げるやいなや、それがまた転がり落ちてしまい、再度山頂まで押し戻さねばならない……ということを延々と繰り返すようなものだとして、それを肯定的に描いています。

ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛ともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。(カミュ『シーシュポスの神話』清水徹訳、新潮文庫、p 217)

カミュの思想は、ニーチェの永遠回帰(『死の哲学入門』p48〜67)と似ていますが、明確に違うのは、ニーチェの永遠回帰では無味乾燥な人生の繰り返しの中に大きな変革が想定されていますが、カミュにはそれがない、という点です。ニーチェの主著『ツァラトゥストラ』には、変革が「大いなる正午」という非常に抽象的な言葉で表現されてはいるのですが、この内実は語られぬまま、プッツリと物語が完結します。しかし、夜と昼がひっくり返るようなことであるとされていて、何らかの大変革が彼の思想には含まれていることが示唆されています。

他方カミュは、不毛な繰り返しの過程にこそ、独自の美を見出す感性を持っているため、変革を求めないのです。人間はどうしても大きな変革や、究極の目的を求めがちです。しかし、目的がなくても不毛な現実に立ち向かい続ける姿勢こそが、人間の存在意義であると定義したのがカミュの思想です。何かのゴールを目指すのではなく、大きな変化があるわけでもなく、ニーチェのように永遠回帰する円環にもなっていない。ただただ消耗するだけの繰り返し、山の上から転がり落ちた石をもとに戻すことを繰り返すだけの生(存在)。それが人間であっても、それこそが美しい。カミュの思想は、現在のコロナ禍においても一つの人間の生き方を示していると思います。

ごたいそうな思想や主義も、わずかな行動ミスが自身と他者の命を奪いかねない危機的状況においては、絵に描いた餅です。圧倒的な不条理の前では、たとえ生き延びたとしても、人は落ちてきた岩をまた上に戻すような日々しか送れないかもしれませんが、カミュのような不条理を主題にした文学から、私たちは強く生きる人間の姿を見出すことができるのではないでしょうか。私たちがこのような事態に直面しつつ、考えること、行動すること、紡ぎ出す言葉、そこから得た知恵などは、まさにカミュが「シーシュポスの神話」の中で「石の上の結晶」と表現したものだと思います。私はこの石の上の結晶が、ポストコロナ時代の新しい世界を形づくると信じています。

<アルベール・カミュ(1913〜1960)。フランスの小説家、哲学者。彼の生涯は、その生い立ちなどを含めて映画『アルベール・カミュ』(監督Laurent Jaoui、2010年のフランス映画)が参考になります>

改訂版カミュ


著者プロフィール

内藤理恵子
1979年愛知県生まれ。
南山大学文学部哲学科卒業(文学部は現在は人文学部に統合)。
南山大学大学院人間文化研究科宗教思想専攻(博士課程)修了、博士(宗教思想)。
現在、南山大学宗教文化研究所非常勤研究員。

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