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とある葬儀で

 足元も言動もおぼつかなくなった母を、母の友人の葬儀へ連れて行った。ワタクシの母は83歳。故人は、もう少しで卒寿に届く歳だった。

 母の友人であるが、出会いのきっかけはワタクシだ。故人であるおばさんと母は、ワタクシが幼稚園児だったときの、所謂ママ友なのだ。

 ワタクシとおばさんのお嬢さんとの間は、まったく付き合いが続かなかった。おそらく引っ越しのせいだろう。小学校へ上がるタイミングで、ワタクシは父の転勤で地元を離れ、その後も父の転勤生活に左右される子ども時代を送っていた。
 母ももちろん転勤に同行して引っ越し生活だったが、大人である母親同士は、ずっと友情を育んでいた。その期間は、50年にもなる。

 もともと感情の揺らぎ幅が大きい母ではあるが、取柄でもあり欠点でもある自尊心の強さにより、公の場で大泣きする姿をこれまで見たことはなかった。父や祖父母(母の両親)、伯母(母の姉)の葬儀のときであってもだ。

 しかし、年のせいか認知機能の衰えのせいか、おばさんとの最期のお別れの場で、母は周囲の会葬者に引かれてしまうほど感情を露わにしていた。それだけ仲が良かったということなのだろうが、実は、冷たいけれど娘も少々引いていた。
 この母の娘を長年やっているワタクシとしては、無駄にプライドが高くええかっこしー、なのに超天然でいつもお花畑な母と、こんなにも長い間友情を保ってくださったおばさんに、満足に足るお礼の言い様がない。ただただ、謹んでおばさんのご冥福をお祈りする。

 半年ほど前、母の通院に付き添ったことがあった。通院の付き添いは日常茶飯事だが、この日の病院へは、母はいつもひとりで行っている。だから、たまたま付き添っただけだった。
 その病院のすぐ近くに、おばさんの家があった。薬局で薬をもらうと、母がおばさんの家に寄りたいと言い出した。呼び鈴を押すと、アポなしにも拘らず、おばさんは快く母とワタクシを家に招き入れてくれた。

 このとき、ワタクシはおばさんと何年振りにお会いしたのだったか。最後にお会いしたのが父の葬儀のときだとしたら、ほぼ15年振りだったのだが、年は取ったが口調も押しの強さも変わらないままで、母より年上なのにしっかりなさっているものだと感心した記憶がある。

 1時間ほど3人でおしゃべりをしてお暇したのだが、このときの会話で忘れられないことがある。

 おばさんの家とダーリンの実家、つまりワタクシの婚家は、菩提寺がいっしょだ。いまのご住職はダーリンの友達の弟さんで、ダーリンは子どもの頃からのあだ名呼ばわりをしている。
 このお寺さんの読経が独特なのだ。

 「あのお経はどうにかならないのかしらね。私、死んだときにあんな読経で送られるの、嫌なのよ」

 歯に衣着せぬおばさん調子で、おばさんはこう言い切った。

 どう独特なのかというと、声が高めで細く、節が揺らぐ感じとでも言えばよいか。鍛錬が足りない森本レオ氏がお経を読んでいる様を想像すれば、よいかもしれない。
 飛行機の機長アナウンスがあんな感じだったら、ワタクシの心は不安でいっぱいになるだろう。そう言えば、昔々TOKYO FM系のラジオ番組「アヴァンティ」で入るCMに、そんなのがあった。あのCMを覚えている方がいれば、あの中の「不安な機長」的な読経だと理解して戴ければ概ね正しい。

「フニャフニャしていて、何言ってるのかわかんないのよ。全然ありがたくない。ねえ、そう思わない?」

と問われて、母は「聞いてみたい」と言い、ワタクシは苦笑しつつ同意してしまった。

 式場で読経が始まったとき、ワタクシはこの会話を思い出してしまい、不謹慎にも口元が緩んでしまった。マスクをしていたので誰にも気付かれずに済んだのだが、あのときのおばさんの大真面目な表情まで、くっきりと脳裏に浮かんできた。

(おばさん、結局フニャフニャのお経に送られてるけど、怒らないでね。ありがたさは変わらないはずだから)

 隣で、母はワタクシが貸した白いハンカチを握りしめて、泣いていた。家に迎えに行ったら、「白いハンカチが見つからない」と大騒ぎをしていたので、貸したのだ。たぶん返してもらえないだろう。スワトウの高いハンカチなのだが、致し方ない。

 その後、ご焼香し、棺にお花を手向け、ご出棺をお見送りした。悲劇のヒロインが乗り移ったような母を脇で支えながら、ワタクシは6月の青い空を見ていた。

 帰りの車中で、葬儀場では女優だったのかと思うくらい、けろりんぱとしてふつうに戻っている母にむかって、ワタクシは言った。

「おばさんはあの読経を嫌ってたけど、何度も聞いていたらあれはあれで何だか中毒性があるわ」

すると、女優はあっけらかんとこう答えたのだ。

「どんなお経だったか覚えていない」

これは、記憶力の衰えがそう言わせたのか、それともインパクトのない読経だったということなのか。半年前には「聞いてみたい」と言っていたのだけれど。

 ワタクシは、もう何度も聞かせて戴いているおかげか、いい味のお経に聞こえるようになってきたようだ。

 たぶん、ワタクシも死んだらあのフニャフニャしたお経に送られるのだろう。あの読経を嫌っていたおばさんのための読経を聞いて、ワタクシは以前よりもご住職が読むお経が好きになったような気がしている。

 何を書きたかったのか焦点のぼやけた文章になってしまった。読んでくださる方がいらっしゃったら、申し訳ないことだ。が、おばさんとご住職に免じて許してほしい。

 おばさん、お疲れ様でした。長い間、あの母の友でいてくださって、ありがとうございました。

 

 

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