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亡父の書斎で見つけたもの

 先日、老母が入院し、一時の間、実家が無人になった。それを機会に少し実家の中を片付けようと思い、亡父が残した書籍を眺めていた。母がいるときには、書斎に長居しづらいのだ。

 父が残した書籍は膨大だ。父亡き後、母は相当数の書籍を図書館への寄付で減らしたが、それでもまだかなりの数が残っている。

 父は読書好きで本好きだった。本棚に並ぶ背表紙群のラインナップには、幼い頃から見ているものも多い。読みたい本は多いが、本道楽だった父の蔵書はハードカバーが多く、読書時間の大部分をバスルームと移動中に確保するワタクシのライフスタイルには、少々合わない。

 ともかくそんな中、ワタクシは父の書斎で一冊の本を見つけた。  
 「林檎林の二本道」というこの書籍は、北海道文学館編で、澤田誠一という小説家の逸文集だ。

 件の本は、「北海道文学館編集・監修の本」の中で紹介されている。 

 澤田誠一、などと呼び捨てしてしまったが、ワタクシにとっては「澤田さんのおじさん」の方が馴染みがよい。父が親しくしていた方だ。ご近所で、もともとは実家地域でりんご園を営んでらっしゃった。ワタクシが今の実家に住み始めたのは2歳数ヵ月のときだが、建築中の家の隣には、まだりんごの木があった。親たちが大人の話をしている間、姉とりんごの木に登って遊んでいたことをぼんやりながら覚えている。

 何気なく手にしたこの本の中に、生前の父が写った写真が載っていた。キャプション通りであれば、私が生まれる前の父だ。32,3歳の頃だろう。澤田さんのおじさんを含む当時の仲間と共に写った写真で、たいそう楽しそうな顔をしている。ワタクシが見たことのない父の顔だ。父は楽しいときにこういう顔をしたのか、と、父が亡くなって15年も経ってから知った。

 ワタクシは、父との思い出が多くない。子育てにほぼ関心を持たずに生きていた父だったので、その父との楽しい思い出を問われても、何も出てこない。思い出の全量がわずかなのだから、そこから楽しかったことだけ抽出することは、かなりの困難を要する。
 実は、世間の父親とはそんなものだろうとずっと思っていたのだが、家族のことが好きで好きでたまらない父親も世の中にいるのだと知るのは、ワタクシ自身の世界が広がってからのことだ。

 だが、読書が好きなこと、書くことが好きなことは、間違いなく父の影響だろう。部屋の四面の壁が本で埋まっている家は、そうそうないだろうから。そういう面では、いい父親だったのかもしれない。正直なところ、父から受けた影響はそれしか思いつかないのだが、ありがたいものなのだろうと思う、きっと。

 澤田さんのおじさんは、父が亡くなった直後に亡くなった。だから、父はこの本を読んでいない。出版に携ったどなたかが、母に届けてくださったのだと思う。おかげで、いま、ワタクシの手に渡った。

 そんな訳で、「林檎林の二本道」を、時間を見つけて少しずつ読んでいる。いまのところ、父が登場するようなエピソードは出てこないが、ワタクシの自我の形成のほとんどを担った地に関する作品には、自ずと興味を持ってしまう。
 小学校で学んだ「わたしたちの札幌」では知ることができなかったホームグラウンドの昔話を読みながら、秋の夜長を過ごすのも一興だ。そろそろ初雪の声を聞く頃となってしまったが。

 母はもう既に退院している。また元の長居しづらい書斎に戻ったし、実家は思ったほど片付かなかった。でも、機会を見つけて、父の書斎を発掘してみようと思っている。思いがけない貴重な本が見つかるような気がしてならない。
 

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