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小銭の存在価値

 ささやかに、ほんとうにささやかに株を持っており、先日配当金の通知が来た。399円。ささやか具合を察していただけるだろう。
 株を始めたのは仕事を辞めた後なので、配当金も初めてのこと。399円とはいえ、株を買っただけでお金が入ってくるのだから、ハマるとそれ一本で生活しようとする人が出てくるのも頷ける。ワタクシにはそんな度胸はないが。
 いや、度胸の前に資金がない。充分な生活費と将来のための貯蓄まで株一本で稼ぐとなると、一体オイクラマンエンの資金が必要なのか。わかっているのは、オイクラマンエンどころではない、ということだ。

 郵便局(正しくはゆうちょ銀行か)へ行き、配当金を受け取ることにした。するとダーリンが、

「1円を渡して400円もらえばいい」

と言う。

「え、どうしてそんなことする必要があるの。399円もらえばいいじゃない。だいたい1円玉持っていないし」

と、ワタクシ。

「1円渡せば100円玉4枚くれるよ。ほら」

 と言って、1円玉をくれようとまでする。理屈はわかるが、ワタクシにはその考え方とやり取りがまどろっこしい。512円の買い物のときに1,012円を渡して500円玉でお釣りをもらうのとは、根本的に何か違う気がする。

 しかし、彼は1円を渡して400円を受け取ることに固執する。ワタクシは399円を受け取りたい。その方がすっきりする。しまいには、移動中の車の中で口げんかになった。

「どうしてそんなめんどくさいことしなきゃいけないの」
「これをめんどくさいと思うから、いつまでたっても金銭感覚が身に付かなくて金が貯まんないんだよ」
「???」

ワタクシの質問には全く答えていない、意味不明の回答が来た。

 ダーリンの金銭感覚は、ワタクシから見ると超人的だ。貯めるところも、使わないところも、使うときには使うところも。
 それに引き換え、確かにワタクシはお金に疎い。結婚したときに、100%家計を委ねられなくて心底助かった。思い切り他人のせいにするが、父も母もお金には疎かったのだ(母は現在進行形である)。実家では、金銭教育がゼロだったと言っても大袈裟ではない。
 それでも、自活するようになってからは自分なりに努力をして、それなりに貯蓄してきた。買い物下手でもないと思う。

「どうして399円じゃダメなのか、って聞いてるの」
「財布が重たくなるからだよ」
「それとワタクシの金銭感覚はどう結びつくかわかんない」
「あー、もういいよ。めんどくさい」
(いや、ワタクシから見ればめんどくさいのはあなたの方...)

重たくなると言っても、ワタクシの財布なんだけど。

 このやり取りで分かったのは、ダーリンにとって100円玉4枚の価値と、100円玉3枚+50円玉1枚+10円玉4枚+5円玉1枚+1円玉4枚の価値の差は、1円ではないらしいということだ。100円玉4枚の方が、かなり価値があるに違いない。きっと、窓口で101円を渡して500円玉で500円を受け取れたら、その価値はぐぐぐんと上がるのだと思われる。
 実際にそういう理屈で利子のような付加価値が付いて、100円が101円の価値になったりするのであれば、それをしないワタクシには金銭感覚がないと言えよう。でも、現実はそうではない。100円玉1枚であろうと1円玉100枚であろうと、銀行で預ければどちらも100円だ。

 数週前に地元FM局の番組を聞いていたとき、「買い物のときに端数をどう支払うか」という話題が出ていた。番組の男性D.J.も、番組でメッセージが読まれたリスナーも、端数を払って、しかも805円の買い物に1,010円を渡してお釣りをもらうような支払い方をする、というのが多数派だったと記憶している。今回の、ダーリンがどうしても1円を渡したい話とは異なるが、小銭の数を極力減らしたい、という目的は共通している。

 小銭って、いつの間にやらずいぶん存在価値がなくなったものだと思う。実際の金銭としての価値はあれども、人間に重宝されているか、という側面では嫌われ者になってしまった。子どもの頃は、300円の遠足のおやつ代が大金だった。小銭3枚を大事に大事に握りしめて、おやつを買いに行ったのに。

 キャッシュレス化もどんどん進んでいる。そのうち、

「財布の中がだら銭(注:北海道方言で小銭、硬貨のこと)でじゃらじゃらだ」

というのは、「電話のベルが鳴る」や「チャンネルをガチャガチャ回す」などと同類になってしまうだろう。昭和に育ったワタクシは、少しさみしい気がするけれど。

 結局のところ、ワタクシは初志貫徹して素直に配当金399円を受け取った。そして、帰宅してからそれを全部貯金箱に入れた。もう長年の習慣だが、毎晩小銭入れには300円のみ残し、残りの硬貨は全部貯金箱に入れる。何年かに一度貯金箱が満杯になるので、それを郵便局(だからゆうちょ銀行だって)に持って行って貯金する。思わぬところで収入があったような錯覚に陥り、ちょっとうれしくなる。実際は何も増えてはいないのに。

 だから、ワタクシは貯金箱があるから小銭を気にしていないだけなのかもしれない。財布の小銭を貯金箱に入れることにしたのも、結局は財布が重たくなるからだったのかもしれない。
 実のところ、「いつ、どうやって」小銭を処理するかという方法が違うだけで、ダーリンとワタクシがやっていることに大差はないような気もする。

 ただひっかかるのは、持ち歩く小銭を減らすことは、金銭感覚の鋭さと関係あるかどうかだ。

 小銭、どうしていますか。

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